第214回
駅長は、何が良かったのか、上手くは説明できない、と返事した。 「でも確かに良かったのですね?」 駅長は、うなずいた。 「そうですか。それは止めた甲斐もあった、というものです。」影はうれしそうに言った。「それではそろそろ横になりますか?」 駅長は同意して横になろうとしたが、少し思案してから、できればこの濡れた服を着替えさせてほしい、と要求した。 「もちろんです。着替え終わるまで待ちましょう。」影は快く承知した。 駅長は濡れた服を脱ごうとしたが、もう両腕にあまり力はなく、濡れた生地が肌に密着して服を上手く脱ぐ事ができなかった。駅長は何度か脱ごうと試みた後、脱力したように寝台に腰をかけ、申し訳ないけれど、脱衣に手をかしてほしい、と影に頼んだ。 「喜んでご協力しましょう。」影が応じた。 影は片手を伸ばすと、駅長の服のすそをつまみ、そのまま引き上げて人形のように力なく座る駅長を脱がせにかかった。影は器用に脱がせると、今度はどこからか乾いた服を取り出して、それを駅長に着せにかかった。着替え終えると、駅長は何度も影にお礼を言った。 「ではもう横になってください。」影が言った。 駅長は、おとなしくうなづいて寝台に寝ころがった。 「横になったら、目をつむってください。」 駅長は、目を閉じようとしたが、またむっくりと起き上がった。 「どうしたのです?」影が落ち着いた声で尋ねた。「まさかこわくなったんじゃないですよね?」 駅長は、そうではない、と答えた。 「ではどうしたんです?」 駅長は、胸を指しながら、この高揚がどうにもおさまらない。なんとかこの感情を書き残しておきたいのだが、と申し訳なさそうに言った。 「もちろんどうぞ。」影が返事した。「でもあんまり時間をとらないようにお願いします。」 駅長は、時間はとらせない、と約束した。そしてポケットの中から、昨夜自分が書いた遺書を取り出した。ここにもう少し書き足すだけでよいから、と駅長が言った。 「そうですか。ではもう少しだけ待ちましょうか。」影が言った。 駅長は、自分の遺書をひろげて鉛筆を持ち、しばらくのあいだ何をどう書いたらよいか思案した。そして駅長は影に向かって、自分がこの数日の間に充実した時間を過ごせると見越した上で自分の自殺を止めたのか、と尋ねた。 「そういう予感はありましたね。でも具体的にどういう結果になるかは知りませんでしたけど。」 駅長は、影の返事を聞かずに、ひろげた遺書に鉛筆をはしらせた。 短い文を書き終えると、しばらく自分の書いた文字をじっくりとながめ、満足したようすで鉛筆と遺書をテーブルの上に置き、まただまって寝台に横になった。 「もうよろしいですか?」影が尋ねた。 駅長は、だまってうなずくと、目を閉じた。 その上に影は片手をかざすと、駅長は少し苦しそうに眉をしかめた。しばらくすると駅長の呼吸が止まった。 外の雨はすでに止んでいた。建物の中は人の気配がないくらいに静かだった。 テーブルの上に残された遺書には、次の文が足されてあった。 『すべての人を愛しています。』 完
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第213回
駅長は少し考えてから、死ぬとどうなるのか影に尋ねた。 影は、クスクス小さく笑いながら言った。 「こわいのですか?」 駅長はなんと答えたらよいかわからなかった。こわくない、と言えばウソになるが、気を失うほどこわくはなかった。駅長は、苦しくなければこわくはない、と答えた。 「苦しくはありません。ただほんの少し息苦しくなるだけです。それだけです。わたしが合図したら横になって目をつむってください。そうするとしばらくのあいだ息ができなくなって、もう気がつかないうちに死んでますよ。」 駅長は、息が止まってしまうのはこわいので、別の方法はないか、と尋ねた。 「あなたが思っているほどおそろしいものじゃあないです。心配しないでください。もちろんどうしても、と言うのなら別の方法もあるにはあるのですが、あまりおすすめはできませんね。たまにわたしの要求に応えずに、いつまでたっても目をつむってくれない人がいるのですが、そんな場合はこうやって喉を無理やりしめつけなければならないんですよ。」影は細くて長い指を広げて、ぎゅっとつかむしぐさをしてみせた。「もちろんあまり気持ちのいいことじゃありません。わたしとしても出来れば避けたいですしね。じゃあ、そろそろ駅長さん、今生に別れを告げますか?それともまだ何か聞きたいことがありますか?」 駅長は、どうして数日前、駅長が死のうとしていたのを止めたのか尋ねた。 「それは心外な質問ですねえ。止めないほうが良かったですか?」影が皮肉をこめて言った。 駅長は、そういうわけではない、と答えた。 「以前も説明しましたけど、あなたが寿命の尽きる三日前に死のうとしてるので、『もう少し待ってみては?』と提案してみたまでです。実際のところどうなんです?待ってみて良かったですか?」 駅長は、うなずいた。 「ほう。」影は感心し、興味深そうに尋ねた。「どう『良かった』のですか?」 駅長は、この数日間を振り返ってみた。まず、自殺を決心した夜、影が突然あらわれた。そしてその翌日、うそつきとの出会いがあった。それから体調をくずして、寝ていると、ハエの訪問があった。その夜に雨が降り、医務室の待合室でうそつきの独白を聞き、その夜詩人が自殺した。翌日詩人の葬儀があって、詩人宛の掃除婦の手紙を読み、掃除婦の弟が書いた物語を読んだ。その後夜を徹して遺書を書き、そして今あのうそつきの騒動に出会った。こう振り返ってみると、この数日間は、駅長の人生の中にあったどの数日間よりも印象深いものだったように思えた。だからあの夜、影に自殺を止めてもらわなかった方が良かった、とはとても駅長には考えられなかった。むしろこれらの出来事を経験できなかった場合を考える方が、駅長にとって駅長の人生は不完全であったような気がした。今、寿命尽きようとするこの瞬間に、ある微かな心の高揚をおぼえているのも、この数日間の経験があったからであった。しかし、何が『良かった』のかいまいち駅長にはよくわからなかった。そして説明することもできそうになかった。ただこの微かな高揚だけが、この数日間に対する満足感を証明するものであった。この数日の間で、何が変わったのだろうか?駅長は考えてみた。そしてこの高揚感は何であるのか、考えてみた。 第212回
それは二日ほど前に聞いた、よく通る太い声だった。振り返ると以前と同じ場所に影が立っていた。身体はやはり黒いマントで覆われており、細い杖を持つ両手は白かった。 「うそつきさんが青い顔をしながら飛び降りたんです。」影は説明した。「まったく愚かな男です。ああいうタイプの人間はすぐに調子に乗ってしまうんでしょうね。困ったものです。ク、ク、ク。でも心配しなくても大丈夫です。死んでやしませんから。帽子さんが下で受け止めたんですよ。ヒ、ヒ。今頃あそこに集まってる人間は大慌てになってるでしょう!だって死ぬはずだったうそつきさんが死ななかったんですから…。」 駅長はこの返答を聞くと、外の様子を見ずにまた寝台へと戻って腰をおろした。駅長は、前回出会ったときよりも落ち着いて影と対峙することができた。駅長には影に対していろいろと尋ねたいことがあった。しかし駅長が質問するよりも先に影が話しかけてきた。 「お迎えにやってきましたよ。」 あらためて駅長は宣告された。外の雨はしとしとと静かに降っていた。雨におびえた住人は、昼食前の散歩をあきらめて、それぞれの部屋に戻ったのであろう。建物の中も静まり返っていた。駅長は、坊主に最後のあいさつをしていなかったことを思い出した。 「大丈夫ですよ。」駅長の心を読んだかのように、影が答えた。「坊主さんにはいずれ機会を見て、私の方から話しておきましょう。そんなことよりも、どうでしたか、この数日間は?」 影の質問は、もうすでに相手の満足を知っているかのように自信にあふれていた。そして実際駅長も、この延長された数日間に対してなんら不満を抱いてはいなかった。 「そうそう、あなたの遺書を読ませてもらいましたよ。」影は、駅長のポケットの中を杖で指しながら言った。「なかなか興味深いものでした。あなたには何か詩人さんに共通するものがありますね。」 それはいったいどういう共通点なのか、駅長は尋ねてみた。 「そうですね…。」影はゆっくりと答えた。「強いて言うと、人生に対する真摯な態度ですかね。ふたりともとても真面目なんです。そう、見ていて気持ちがいいくらい真面目なんですね。もちろん良い悪いは別にして…。でももうよしましょう。わたしは今ここであなたに向かって教訓めいたことを話しに来たんではないんですから。さっきも言ったように、わたしはあなたを迎えに来たのです。…でもそうですね。」ここで影は少し思案しながらつぶやいた。「少しくらいなら、お話しても大丈夫かもしれませんね。それくらいの時間ならゆるされるでしょう。それに今日はなんだかとても気分がいいんですよ。あなたも何か聞きたいことがあるようだし。」 第211回
焦る聴衆の怒号と罵声が飛び交う中、雨が降り出した。しかし誰ひとりとしてその場から去ろうとする者はいなかった。皆夢中になってうそつきを木の上から飛び降りさせようとがんばっていた。反対にうそつきは言葉をつくして聴衆の説得を試みたが、効果はまったくなかった。聴衆はうそつきが話そうとするたびに、あおられた炎のようにさらに激しく、枝の上になすすべもなく立ち尽くすうそつきを追求した。 雨の中ひとりだけ我に返ったのは駅長だった。駅長もまわりの興奮にのまれて事の顛末を追っていたのだが、雨に打たれることで、今日自分が死ぬ予定だったことを思い出したのだった。実際駅長は、このうそつきの行動に尋常ならざる興奮を覚えていた。もしかすると奇跡の現場に立ち会えるのかもしれない、という期待が駅長をその場に釘付けにしたのであった。なぜそのときそんなにも奇跡を欲したのかはわからなかった。目前に迫った死期がそうさせたのかもしれない。いずれにしても、駅長は奇跡に対する期待感で胸がいっぱいになり、熱病にうなされたようにうそつきの一挙手一投足を見守っていた。しかし駅長はほかの聴衆と同じようにうそつきを追いつめようとはしなかった。どういうわけか、駅長はいざこざの末にうそつきが飛び降りる事を前もって予見し、またそれが無事に終わる、ということも確信に近いかたちで信じていた。そしてまだ起こらぬ奇跡に対して駅長は深い興奮を覚えていたのであった。 雨に打たれて我に返った駅長は、まだ冷めやらぬ興奮を感じながら、うそつきを中心に集まった聴衆の輪から離れた。輪から離れるにしたがって雨脚は速くなったが、聴衆は一個の意志を持った生き物のように、うそつきを木の上から飛び降ろすために執拗に攻め続けた。駅長がずぶぬれになって自分の薄暗い部屋に戻った時もまだ外からうそつきに向けられた罵声が、建物の中にまで聞こえてきていた。駅長は濡れた服を着替えることもせず、寝台に腰かけたまま外の様子に聞き入っていた。しばらくすると沈黙がおとずれた。外では誰も何も叫んでいない様子だった。ただ雨がしたたる音だけしか聞こえてこなかった。そして数分間沈黙がつづいた後、『おお!』という地鳴りのような歓声が聞こえてきた。その歓声につられて、駅長は外の様子をうかがおうと立ち上がり、窓の方へ歩き出した時、ある声が部屋の中から聞こえてきた。 「飛び降りたんですよ。」 第210回
聴衆から罵声がうそつきに向かって投げつけられた。雨雲の接近に焦った聴衆は、早く何とかしてうそつきを木の上から飛び降りさせて、この決着をつけなくてはならない、とやっきになっていた。もしうそつきが死ななかったら、ほかの誰かが変わりに死ななければならないのである。聴衆はさっきまでの、奇跡に対する期待も忘れて焦っていた。うそつきは聴衆からの敵意を一身に受けながら、彼らを説得し始めた。 「わしが悪かった。どうか落ち着いてくれ。こんなでたらめなことをしようとして、わしが本当に悪かったんだ。こんなふうにして神をためしちゃだめなんだよ。これはわしがバカで、間違った考え方をしていたからこんなことになってしまったんだ。本当だ。これは本当なんだ。わしらに必要なのは、なんにも言わないで、黙ってひざまずくことだったんだよ!それが今にしてわかったんだ!わしらはひざまずかなけりゃならないんだ。何もかも捨てる覚悟でひざまずかなけりゃだめなんだよ!祈りには頭を下げてひざを折る覚悟が必要なんだ。どうかわかってくれ。わしは別に怖くなってこんなことを言い始めたんじゃない。信じてくれ!今何がいちばん大切なのかわかったんだ。それはこんなふうにして、神をためすことじゃないんだよ。このやり方はおろかで、冒涜的でとにかくまちがってるんだ!本当さ!見当違いだったんだよ。大切なのは屈服して降伏して、何もかも捨てる覚悟で信じて祈ることなんだ。ほうとうさ!」 しかし聴衆はうそつきの説得に耳を貸そうともしなかった。そして聴衆からの罵声はやがて怒号へと変わっていった。 「ぐずぐず言ってないで、早く飛び降りろ!」小心な老人がヒステリックに叫んだ。 「そうだ、あんたが今何を悟ったかなんて関係ないんだ!今大切なのは、帳尻を合わせることだ!さあ早くこの責任を取ってくれ!」無責任な老人も喉を絞るようにして叫んだ。 「おい、もう早くしないと雨が降ってきそうだぞ!」慎重な老人が後ろに迫る雨雲を心配そうに見上げながら言った。 うそつきは、もう止められそうもない聴衆の興奮を呆然と木の上から見下ろしていた。そして戸惑った様子で、自分に向かって問いかけ始めた。 「まだ手遅れではない。今わしはためされているだけなんだ。このままこいつらの非難をがまんして飛び降りるのをやめるか、それとも飛び降りてしまうか…。飛び降りる勇気と、非難を覚悟でやめる勇気と、今わしにはどっちが大切か?そうだわしは今ためされてるんだ。まだ手遅れではないんだ!せつな的な屈辱を耐えれば、永遠の至福が約束されているんだ!」 第209回
雨雲は両翼を伸ばした巨大な鳥のように、施設を包み込むようにして広がってきていた。そしてそれにともなう黒い影と一緒に、湿った冷たい風が建物前を散歩している住人たちに向かって吹いてきた。冷たい風に恐怖をあおられた聴衆は、新たな不安がわきおこってきた。普段、施設に住む住人に死の予兆を伝える雨雲は、太陽の沈みかけた夕刻、もしくは夜中にしかなかったことで、昼前に来ることは極めて異例のできごとだったのだ。これをどう解釈すべきなのか?うそつきも含め、すべての聴衆がとっさにこのことについて考えた。今現在、いちばん死に近いところにいるのは、無謀にも木の上から飛び降りようとしている、うそつきであることは明白であった。するとこの死を告げに来た雨雲は、うそつきのことを指しているのだろうか?もしそうであるのなら、これから飛び降りようとしているうそつきに、奇跡は起こらない、ということになる。この考えは、木の前に集まった住人すべての頭に浮かんだ。そしてそれは、今日死ぬ事になっているにもかかわらず、駅長、そしてその事実を知っている坊主、うそつきにも同じように浮かんだのであった。そこに集まった人々は皆、うそつきが木の上から飛び降りると、死に至る事故になる、と確信した。 するとそれまで飛び降りるための心の準備をして苦渋の表情を浮かべていたうそつきの顔に、雨雲があらわれてから、ある重大な直感がひらめいたかのような顔つきがあらわれた。それは睡眠中ずっとうなされつづけた悪夢から目を覚まし、やっとのことで解放されたかのような、晴れやかな表情であった。 「神をためしてはだめなんだ!」うそつきは突然叫びだした。「そうなんだ、神はためしちゃだめなんだ!」 うそつきのこの突然の告白は、はじめ聴衆には理解されなかった。しかし晴れやかなうそつきの顔にもう飛び降りる意思がないことを見てとると、聴衆は狼狽し、そして火がついたように怒りだした。 「なんだって?これはいったいどういうことだ?」小心な老人がうろたえるようにして叫んだ。 「何を都合のいいこと言ってるんだ!あの雨雲を見てから怖気づいて飛び降りるのがこわくなったんだろ!」無責任な老人も、うそつきの軽薄さに罵声を浴びせた。 「あいつが飛び降りない、ということは、誰か別のやつが死ぬことになるんだぞ。そんな勝手なことをさせるもんか。だいいちあの雨雲はあいつが呼び出したんだからな。あいつを何とかあそこから飛び降りさせなくちゃいけないぞ!」慎重な老人が、ほかの聴衆をあおるように叫んだ。 第208回
「大丈夫かな?」裏切られたくない期待を守るように、ある小心な老人がつぶやいた。 「ただではすまんだろうな。」責任の所在を自分からはずすように、無責任な老人が他人事のように言った。 「もしかすると、もしかするかもしれんぞ。」これから起こる惨事を確信しながら、おもしろがるようにまわりをながめていた、慎重な老人が言った。 この聴衆の外側にいた駅長と坊主も、はじめこそ冷やかすようにながめていたが、今では皆と同じように不安と期待をあわせ持って、熱心にうそつきの動向をうかがっていた。そしてこの緊張感に折れるようにして坊主はつぶやいた。 「もうやめればいいのに…。」 「やめるのには、もうおそすぎるよ。」瓜実顔の老婆は不安そうに両手を胸の上に組み合わせながら、答えた。「ほら、もう飛び降りようとしているよ!」 「だってあいつは、二日前まで自分で歩くこともできなかったんだぞ。」坊主が無駄とわかりながら訴えた。「それがあんなところから飛び降りれば、どんなことになるかなんてわかりきったことじゃないか!」 木の上にいたうそつきも、聴衆の異様なほどの関心を感じ取っていた。自分の胸が高揚し、足が震えているのも感じていた。下を見ると地面がはるか下方に見え、夢見心地で祈りを唱えていると、うそつきには自分の足がどこにあるのかもはっきりとわからなくなるのだった。喉が渇き、汗がしたたりおちた。そして声は上ずり、祈りの内容も明瞭にならなかったが、うそつきは目を閉じて懸命に何度も祈った。まるで目を閉じて祈ると、次に目を見開いた時、すべての悪夢のようなできごとが好転しているとでもいうかのように…。 そのとき突然うそつきの祈りが止まった。覚悟を決めたうそつきが最後の祈りの前にふと目を開くと、そこにうそつきにとってまったく予期しなかったものが目に入ったのだった。うそつきは聴衆の頭上のはるか向こうに視点を合わせたまま動かなくなっていた。しばらくうそつきが黙って枝の上に立っていると、聴衆もうそつきに起こった異変に気づきはじめた。聴衆がさそわれるようにうそつきの視線につられて振り返ると、そこには音もなく忍び寄ってきていた雨雲が広がっていた。 第207回
「どうせこんな事だろうとわかっていたよ!」瓜実顔の老婆が残念そうに言った。「やけに威勢がよかったからもしや、と思ったんだけど。」 するとこのとき聴衆の数人が驚きの声をあげた。枝の上にいるうそつきが幹を両手でつたいながら、そろそろとバランスをとって枝の上に立ち上がり始めたのだ。聴衆は息をのんでこの光景を見守った。初めて立ち上がった赤子のように、うそつきの少し曲げられた両足は震え、上半身もゆらゆらと揺れていた。そしてうそつきはかたく両目をつむると、また聴衆には聞き取りにくい声で、祈り始めた。その小心そうな顔には悲壮感がただよい、追い詰められた弱い者がつくるかたい決意の表情があらわれていた。うそつきの決死の覚悟が伝わったのか、もう聴衆からの野次はなくなり、この先に起こるかもしれない事態に対して異常な興奮と緊張を感じ、皆おしだまっていた。沈黙がしばらくつづいた。濃くしげっている樫の木の葉を風がゆらしていった。するとこの興奮と緊張の持続にがまんできなくなった幾人かの聴衆が不安の声をもらし始めた。 「本当に飛び降りるのかな?」誰かが不安そうに尋ねた。 「まさか。そんなだいそれたことなんてできやしないよ。」隣にいた者が自信なさそうに答えた。 「でもなんだか、本当に飛び降りそうだぞ。」 聴衆はざわめき始めた。不安はゆっくりとしみるように広がっていき、皆が、惨事があった場合の責任から逃れるために、部外者を装い始めた。お互いに目を合わせずに、うそつきをここまで追い込んだのは自分ではない、と口を閉ざしたまま主張し始めた。しかし誰ひとりその場から立ち去ろうとする者はいなかった。皆、これから先に起ころうとしていることに対して目が離せなくなっていたのだ。そこには『もしかすると』という期待感があった。確かに聴衆たちは、もしもうそつきがあの枝から飛び降りたならば、どういうことが起こるかは、ほぼ確信に近いかたちで予測できたが、枝の上に震えながら立つうそつきの真剣なまなざしを見ていると、心の隅のほうで、ひょっとすると今まで見たこともないような奇跡に立ち会えるのかも、という期待感を抑えることもできなかった。惨事に対する不安と、奇跡に対する期待とが聴衆の間に異様ともいえる好奇心をかきたてていたのだった。 第206回
「まったく子供じみた話だな。」あきれた坊主はつぶやいた。 「さあ、早く飛び降りてみろ!」聴衆のひとりがせかした。 「いつまでそんなとこにいるつもりなんだ?あんたの祈りはあんたを守ってはくれんのかね?どうなんだ?」 「でもこわいのならこわいってさっさと言えばいいじゃないか。そんなら降りるの手伝ってやってもいいぞ。」 「静かにしてくれ、静かにしてくれ!」うそつきは両腕で大切そうに木の幹にしがみつきながら、叫び返した。「心配しなくてもここから飛び降りるから、どうか静かにしてくれ!」 聴衆からの心無い野次に対して、面目をたもとうとうそつきはやっきになっている様子だったが、うそつきの目は焦点が合わずにうつろにただよっているだけだった。 「もう飛び降りるから、もうすぐにも飛び降りるから、どうか黙っててくれ。」うそつきは聴衆に向かって訴えた。 「あれはどう見てもこわがっているじゃないか。」坊主が心配そうに言った。「大丈夫なのか、あれで?」 「仕方ないよ。」瓜実顔の老婆が答えた。「自分でまいた種だもの。どうなろうと自分の責任だよ。」 「バカなやつだな。」坊主が同情するように言った。「謝って降りてくればいいんだ。」 うそつきは両手を幹にまわしたまま、両目をかたくつむってなにやら祈っている様子だった。しかし下にいる人間まではその祈りの内容は聞こえてこない。ときおり『憐れみを』や『ご慈悲を』という言葉が漏れ聞こえてくるだけだった。そしてこのままの状態で数分が過ぎた。しびれを切らせた聴衆がまた少しずつざわつき始めた。 「早く飛び降りろ!」聴衆のひとりがまた叫びだした。 「いつまで待たせるんだ?」 「黙っててくれ、頼むから黙っててくれ!」うそつきがヒステリックに叫んだ。 「これはどうも駄目そうだな。」坊主が冷やかすように言った。 第205回
「あんなところであいつ何をしてるんだ?」驚いた坊主がすぐ隣にいた老人に尋ねた。 「飛び降りるんだって!」白いひげを伸ばした、杖を突いた老人が興奮気味に言った。 「なんだって?」坊主が問い返した。 「飛び降りるんだって!」杖をついた老人が繰り返した。 「どうして?」 「なんでもあそこから飛び降りて、奇跡を起こそうとしてるらしいよ。」近くにいた瓜実顔の老婆が説明してくれた。 「でもあんなところから落ちたら、骨の一本や二本じゃすまないぞ。」坊主がまた木にまたがるうそつきを見上げながら言った。 うそつきは太い枝の根元に座り、両手で幹にしがみつくような格好で、木の下に集まってきている住人を見下ろしていた。そして眉間にしわを寄せながら、「ほんとうだ、ほんとうに飛び降りる事ができるんだから」と下に向かって訴えていた。 「やりたけりゃ、やればいいんだよ。」瓜実顔の老婆が挑戦的に言った。「どうせ無理に決まってるんだから。」 「でもどうやってあんなとこまで登ったんだ?」坊主が尋ねた。 「うそつきと口論してたやつら数人が、手伝って持ち上げてやったそうだよ。」瓜実顔の老婆が説明した。 その話によると、うそつきはラジオ番組が終わると同時に、ついこの間まで詩人が神の教えを広めていたこの木の下までやってきて、演説を始めたらしい。始めは気のない住人が数人ひまつぶしに聞いていただけだったそうだが、次第にその内容に熱がこもってきて、うそつきと聴衆の間で激論が戦わされるようになった。この聴衆の中に娯楽室にいた白髪の男も混ざっていたのだが、うそつきがラジオ番組の流れから『祈りをしないものには救いの手は差し伸べられない』と言い張ったところから、口論となっていったらしい。祈りの大切さを否定する白髪の男が、うそつきによって祈りをしない人間の死後の生活がどれほど苦しみと汚辱にまみれているか、ということを宣告されると、白髪の男は挑発的に、『もしそんなに祈りが大切なら、ためしに祈りながらこの木の上から飛び降りてみろ』とつめよったのだった。このなかば強引な論法にほかの聴衆も触発され、『たしかに祈りが守ってくれるのなら、けがひとつなくあそこから飛び降りられるはずだ』とうそつきを追い込んだのだった。うそつきは予想もしなかった聴衆のこの要求にまごつき戸惑っていたのだが、聴衆の挑発的な呼びかけに最終的に応じてしまった。話が決まると、さっそくそこにいた住人数人によって担ぎ上げられ、枝の上まで登らされてしまった。そして枝の上にまたがったうそつきは意を決したのか、緊張した顔をこわばらせながら、今は増えてきたやじ馬の住人たちに向かって熱心に話しかけていたのだった。 |
木鳥 建欠
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