第109回
一番近くにいるまだ若い男は、足もとにある泥を払いのけながら足にからまる木の枝を口汚くののしっていた。そのすぐ横にいる老婆も腰をかがめて、「孫に会いたい」と、うんうんうなっていた。老人は王の手をとって、足の踏み場もないくらいにひしめきあっているこれらの人たちの間をぬって、どんどんと奥の方へと案内した。足場はぬるぬるとすべる上に無数にからまりあう木の根でおうとつがはげしく歩きにくい。王の両側にいる人たちは、王に気づくことなく、無心に自分たちの足をいじくっていた。 「ほら、あそこにいる顔中ひげだらけのやつ、あいつがさっき言った大悪党だ。人のものを盗んだあげくとちゅう何人もの人間を殺して追われているときにここで足を引っかけてしまったんだ。ヘ、へ。でもここが悪い人間だけを選んでこらしめる場所と思ったら間違いだ。ここにはそら、あそこ、りりしい顔をした若者がいるだろ?あれなんかこのあたり一帯を立派に治めていたいわゆる王様だ。四百年くらい前にここに来たんだが、それまでは貧しい人間を救ってやったり、町を発展させたりとみんなから慕われていたんだが、ある時ある子供の犬がこの森に迷い込んだときに、奇特なもんでこの王みずから一緒に犬を探すのを手伝ってやってな、そのまま帰れなくなったんだ。そら、その横にいるその子供、そいつと一緒にな。」 その青年の王は歯ぎしりしながら足をひねくっていたし、その横の少年は、犬のこともすっかりと忘れた様子で泣きながら泥の中の足をまさぐっていた。 「なんのために?」王はやっとの思いでこれだけたずねることができた。 「なんのため?」老人は立ち止まって、またバカにしたように笑った。「へ、へ。別にこれといって理由はないさ。でもいずれそのうちわかるようになるだろう。あんただっていつか王になったとき、何の理由もなしにただただそういう気分になっただけで他人を傷つけたりするようになるのさ。そんなときになって誰かから『どうして?』って尋ねられることもあるかもしれないが、あんたにはおそらく答えることができないだろうな。まあしいて言えば、子供が『そこからどんな体液が出てくるのか』とか『つぶれるときにどんな音がするんだろう』とかいうたあいない理由だけで地面を這いつく虫をふみつぶすようなもんだろう。『そいつらより完全に強い』、とか『そいつらの生命をいつでも自分の自由にできる』、とかなにかそういった優越感がそんなことをさせるのかもしれないな。」
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第108回
「そこにいる亡者のことが気にかかるのか?」 うしろでしわがれた声が聞こえたので、振り返ると水際に背の低いあたまのはげた老人が立っていた。老人はやせた体に汚れた布切れをまとい、太い杖をついていた。すぐに王にはその老人が誰なのか検討がついた。そして王はその鋭い好奇に満ちた視線でもって老人に応えた。 「つれて行ってやろうか?」 この問いに王はちゅうちょせずすかさずうなずいた。それを見ると老人は頭がい骨に薄い皮を張っただけの顔にしわをつくった。怒っているのか笑っているのかは検討がつかなかった。 「そこに行けば、いろんな人間に会うことができるぞ。大昔の人間にも会えるし、追っ手をのがれてこの森に逃げ込んだ大悪人もいる。心中した恋人もいるし、かつてこのあたり一帯を治めていたやつもいる。だがみんな夜になって水中から出てくると、はずれない足を引っぱったりひねったりして一晩じゅううらめしそうな声をあげておる。そんなところに行くのは怖くないか?」 「こわくない。」王は毅然と答えたつもりだったが、不覚ながら声は震えていた。 老人は再び顔の半分にしわを寄せて、今度ははっきりと小バカにしたように、にやりと笑った。 「おまえはいずれ王になるんだろ?そうすると、いちどこういうのを見ておくのも悪くはないかもしれんな…。」 その夜の出来事は、今思い出してみても夢のようなことばかりだった。その夜老人につれられて湖のほとりまで来た王は、生涯忘れることのできない光景を見た。暗い森を抜けたその場所は、水に濡れた何百もの黒くうずくまる人間が月明かりで照らしだされていた。そこは彼らの髪や服からしたたりおちるたくさんの細かなしずくが、月明かりに星のように反射していた。水は遠くのほうまで干上がっていた。そしてあたりはこの何百もの人間が泥のなかで動く粘っこい音と、彼らの怨嗟の声で満ちあふれていた。 「いちばん手前のやつがごく最近迷い込んだやつで、遠くに行くほど時間は古くなる。」老人は驚きのあまり声の出ない王に話しかけた。 第107回
それは王がまだ幼かったころ、濃く生い茂る森のなかの大きな湖で出会った若い女の思い出だった。その森のなかにある湖は、暑い季節にはいつも避暑地として使われていた王家の別荘の近くにあった。むかしから妙な魔物が出るとうわさされ近隣に住む者たちからは恐れられていた場所なのだが、まだ幼かった王は好奇心にかられてよく別荘をぬけ出して、ひとりそこまで遊びにいったものだった。湖は水際まで木が繁っており、水の縁まできても大きな枝が傘のように湖面まではりだしていて薄暗く、小さなさざ波が木に砕ける音がいつも不気味にこだましていた。この湖は夜になると水位が下がり、夜明けとともに水かさが増えるところから、湖に住む大量の魔物たちが夜のうちに水から這い出して活動し、太陽が昇るのと同時に湖に帰ってくるので水位が上下するのだ、とうわさされていた。さらに夜になって森に足を踏み入れたものはよく行方不明になったのだが、それは暗い森のなかで彼らの大半が目測をあやまって道を失い、水位の下がった場所にすいこまれるように迷い込んで、細くからまり合う木の根に足をはさんで、そのまま抜くことができなくなって夜明けとともに水没したからであった。近隣の言い伝えでは、昼間それらの死体が水中深く沈むときは、あたりに自生する藻のようにゆらゆらと揺れているのだが、夜になってあたりから水が引けると彼らはみなむっくりと起き上がって、自分たちの足にからまる木の根から逃れようと嘆きの声をだしてもがくのだそうだ。そしてそのもがく人たちの中には、何百年も前に森で迷った人間も沈んだ当時と同じ格好で(腐敗もなく)毎夜苦しみの声を出しているらしい。 太古の昔からの人間をそのままの状態で飲み込んでしまうところから、この湖は「記憶の湖」と呼ばれていた。この「記憶の湖」に、ひとりだけ決して道を失うことなく深夜近づき、みずから足を捕られることなく、これらの木に足をはさまれた不幸な人たちと接することができ、また無事に戻ってくることができる老人がいた。誰もこの老人がどこに住み、どういう素性のものなのか知るものはいなかった。たまに物乞いをするため民家をたずねることがあっても、このあたまがはげあがり長いひげをたくわえた老人は、ゆいいつこの不思議な湖の世界と行き来できる者として、畏敬の念を持って迎えられていた。そしてこの老人と幼い王はある暑い昼さがり、記憶の湖の水際で出会った。王はその日、湖面にかぶさるように伸びた大きな木の枝にまたがり、湖から吹く風に涼をとっていた。風は鳥や獣の鳴き声をのせて王の体を吹きぬけていき、背後からは波の砕ける小さな音が響いていた。王自身、この湖にまつわるおそろしい話を何度も聞かされていたが、怖がることなく、枝にまたがりながらすぐ下に揺れる水面を息をのんでながめていた。しかしいくら目をこらしても、濃くにごった水は、その中で藻のように揺れているであろうたくさんの人間を見せてはくれなかった。それでも水面下の情景を想像するだけで、王ははげしい興味をそそられるのであった。 第106回
体から汗がしみ出さなくなった数日後、王は死を覚悟した。意識は途切れがちになり、夢の世界との区別がなくなってきて起きているのか眠っているのかもわからなくなりだした。もう少しましな人生があったのかもしれないな。王はちらりと考えた。だが、『ましな人生』とはどういったものなのか考えてみる間もなく、そんなことを考えたことじたいすぐに忘れてしまった。またたまに無意識のうちに、かさかさに乾いた手や足を海水で湿った部屋の壁になすりつけたりすることがあった。そうしたときはたいてい、川面や深海で徘徊しているとき、突然水が干上がってしまって身動きが取れなくなっている夢を見ているときであった。夢のなかで水はものすごい勢いで乾いていき、地面にはヒビが入り、自分は力なく乾いた空気に溺れているのであった。 その時王はふと部屋の真ん中にあるコルクの事を思い出した。まだなんとか体を動かせれるときにこの栓を抜いてしまえばどうだろう?からからに干上がって死んでしまうのと、水に溺れて死ぬのとどちらがましだろうか?からからに体が乾いている王は、すぐに水にまみれて死ぬことを決断した。水で死ぬのはまだ愉快なのではないか、とも考えた。塩気が含まれていようと、水分であるということが王を誘惑したのだ。王は寝台から転がり落ち、トカゲのように床を這い、コルクの栓につかまった。が、悲しいかな栓は衰弱した王の力をもってしてはびくともしなかった。栓はしっかりと詰められており、王の全力でもってしても抜ける気配はない。王は栓に呪いの言葉をなげかけながら奮闘した。チクショウ!バカな設計者らめ!これをわしに抜かせるのを目的としているのならなぜもっと軽く差し込んでおかんのだ?どうしようもないばか者らめ!王はじだんだ踏んでくやしがった。水に溺れて死ぬことを歓びとともに思いえがいていた王は、死ぬまで水に触れられないかもしれない可能性に身震いした。どうしてすこしもわしの思うようにことが運ばんのだ?どうしてすこしでも楽に死なせてももらえんのだ?そしてヒステリックに混乱した王は、猫をかむ前の追いつめられたネズミのように前後のみさかいがなくなり栓に向かって飛びついた。すると今度は何の抵抗もなしにコルクが差し込まれていた穴から抜け出た。 肩すかしをくらったような感じになった王は、しばらくぼう然と床の穴からあふれでる水を見ていた。水は思ったよりもゆっくりとしか流れ込んでこない。いっきにこの部屋を沈めるには穴が小さすぎるのだ。それでも王は長い間水不足に悩まされていたので、床から際限もなくわき出る水を喜んで迎えいれた。一度不覚にも海水を口にふくんでしまい、あまりの塩辛さに吐き出してしまったが(そしてその結果王の渇きは倍増してしまったが)、体を床に横たえ、徐々に体をひたしてくるこの水を楽しんだ。もうどうせすぐにも死んでしまうのだ。王はこうつぶやいて口の渇きをがまんし、暑くて干からびかけていた体を冷えた海水に浸して、皮膚の潤っていくのを喜びとともに感じていた。目を閉じていつものように魚になる夢を見た。この日はいつにもまして元気よく水の中を泳いでいた。もう水が干からびる心配もない。やがて王の体は床から離れ、部屋に氾濫しだした水に浮かびだした。ちからなくゆらゆらと部屋のなかで浮かんでいると、遠いむかしのことが思い出された。 第105回
そして最後にはこの拷問に体中をふるわせて怒りだし、ふりしぼるように叫び声をあげ、分けがわからなくなって吸い寄せられるように樽にとびついたかと思うと、頭から顔をつっこんで残りの水を一気にすべて飲み干してしまった。ぐったりと体を横たえ、両手で顔をおおって、体中に水がしみ込んでいくのを感じた…。そして一時の満足を感じた後、穴の底に落ちていくようなさいげんもない恐怖に王は襲われた。水はすべてなくなったうえにこの先水を補給できる見込みもない。どうしようもなくさみしくて悲しかった。地上にいれば、どんなにいやしい身分の人間でも特に熟慮しなくても浪費できる水が、赤子のように幼い子でも制限なしに使えるその水が、その国でもっとも地位の高かったこの王に、ひとすくいの水にも絶望を感じさせているのだ。これが屈辱でなくてなんであろう?どこをどう間違ってこの場所にたどり着いたのだろう?王は変わり果てた自分の境遇のみっともなさに涙を流した。そしてたった今飲み干した水はすべて王の熱い両目からあふれだした…。 その日いちにちうだるような暑さのなか身動き一つせずに寝床に横たわっていた。暑さで貴重な汗が流れ出たが、放心状態にあった王は気にもとめなかった。翌朝、かさかさにかわいた唇を両手でぬぐい、粘つくつばを念入りに飲み込んだ後たらいに小便を流し込み、さそわれるようにたらいに口をつけ苦い自分の小便を飲み込んだ。そしてまたぐったりと寝床に横たわり、いろんな水のことを考えた。目を閉じて、まわりで波の砕ける音を冷たい山のせせらぎだと自分に言い聞かせた。その日も空が真っ青の暑い日だった。海上には風が吹いていたが、なまあたたかい風は少しも部屋を涼しくしてくれない。ゆらゆらと揺れる部屋にももう慣れてしまった。からだの水分といっしょに怒りも蒸発してしまったみたいで、ただもうなにもかもがおっくうだった。口の中が渇き、舌がスポンジのように膨れあがってがまんできなくなると、たらいに残しておいた自分の小便で口中を湿す、という繰り返しがつづいた。翌日も同じような日が続いた。ときおりかもめが能天気な声を出して部屋のまわりを飛んだり、部屋の天井におりてきて羽を休めたりした。日を追うごとにたらいの小便は濃くなっていき、どれだけ口が渇いてももう湿すこともできなくなってきた。そうなると王はもう寝床から起き上がることもなくなり、眠る以外はずっと水を連想しつづけた。とりわけ王を元気づけたのは、自分が魚になって川や海を泳いでいる自分の姿を想像することだった。あるときは大きな丸い石が敷きつめられた流れのはやいつめたい川の浅瀬であったり、また別のときは太陽の光も届かないような深海の底であったりした。川の場合は、陽光が川面をきらきらと反射し、水と空気が混ざり合う音を楽しみながら冷たい水を泳ぐのが心地良かったし、海底の場合は、誰とも触れあうことなく完璧にちかい孤独な状態で暗闇を徘徊するのが、子供のころのいたずらのように刺激的だった。 第104回
翌日、真っ青な空から焦がすような陽気が真上から箱を照らし、室内をむせかえすように暑くしたとき、王は汗まみれになって起き上がり水を一杯すくって口にふくんだ。そしてもう樽の中の水が、部屋が揺れるたびに底が見えかくれするくらいに減ってしまっているのに気付いた。この暑さではすぐにでも干上がってしまいそうだ!王はつぶやいた。さらに王自身が渇きに悩まされた。暑さで汗はどんどんとふき出してくるのだが、かんたんに補給することはゆるされない。汗がしたたり落ちるのを見るつど、渇きは何倍にも感じられた。欲望を抑制することに慣れない王は、このジレンマに身もだえして苦しんだ。そして飲んではいけないと思い、がまんしようとすればするほど樽が空になるまで飲みたくなった。注意をそらすため王は大声で歌ったり部屋中を飛び跳ねたりしてみたが、離れれば離れるほど近寄りたくなり、忘れようとすればするほど残り少ない樽の水が気にかかった。二通りの考えが、下から火であぶられているかのように、王のあたまの中を暴れながらぐるぐるとかけめぐる。一つ目の考えは、王にいさぎよいあきらめをうながしていた。「そんな少しの水を残しておいてもどうなるもんでもない。かえって目障りなもんさ。その少しの水のせいで精神を常にかき乱されるのはとても健康なこととは思えないな。あるから苦しむのさ。なくなってしまえばすくなくともこの誘惑はなくなるんだから。だからいっそのこと飲んでしまえばいいのさ。だいたいこんなに少しの水を残しておいたって状況はたいして変わりやしないよ。」それに対してふたつ目の考えは冷静になるよう訴えた。「たとえどれだけ少なくなっても水は水だよ。飲まなくても口をゆすぐくらいはできるんだから。でもなくなってしまえばそれでもうおしまいさ。どれだけ求めたってどこからも一滴もわいてきやしないんだよ。なんの先の見通しもないまま水を飲みほすのはむちゃだよ。危険だよ。だって確実にわかっているのはこの先も水は必要だってことなんだ。だからここは残しておくにかぎるね。」「でもこんな残り少ない水で何が期待できるって言うんだ?」「でもないよりはましだろう?」「いや、ないほうがましだね。今いっきに飲んでしまえば、もう飲もうか飲むまいかで悩まなくていいじゃないか!」「死ぬくらいなら悩めばいいさ。水はとにかく必要なものだっていうことがわからないのか?」「わかるよわかるけどのどがからからなんだ。水がのみたいんだよ!」「がまんだ!がまんがひつようなんだ!」「あのみずがきにかかるんだ!なんとかしてくれ!」「わすれろ!わすれろ!」「ああ、なぜこんなちっぽけなりょうのみずものんじゃいけないんだ?なぜだ?ちょっとじゃないか。なぜわるいんだ?こんなみずものんじゃいけないのか?みずをのむのはそんなにわるいことなのか?」 第103回
そんな王だったのだが、ここのこの部屋の生活には耐えることができず、太かった王の気力も細くなり、たあいもなくねじまげられてしまっていた。王に対する試練はつきなかった。やっとのことで船酔いから解放されたかと思うと、つぎはこの絶望的な状況に目を向けなければならなかったし、向けざるをえなかった。つまりこの刑の本質―受刑者の飢えと孤独からくる苦しみ―と向かいあわなければならなかったのだ。王はつみこまれていたパンをかじってみた。しかしもともと石のように硬いうえに、弱りきった王のあごでは噛み砕くことができなかった。王はこのようなパンを見たことも聞いたこともなかった。王が食べてきたパンはいつもできたてでやわらかく、香ばしいかおりを発していたものだった。しかたなしに根気よくなめて湿らせることにした。これはうまくいったのだが、数十分かけてふやけたのは一口ぶんにもならない。そこで王はこのパンを樽の中に入れて湿らせることにした。一時間ほどでなんとか王にも噛むことができるくらいやわらかくなった。もっともその代償に貴重な樽の水もずいぶん減ってしまったのだが。王はこのふやけたパンと小姓が隠してしこんでくれた塩漬けの肉をかじりながら残りの食糧について考えた。とても残りのパンをふやかせるだけの水は残っていない。何度考えても同じ結論だった。水と食糧が足りない!もちろんこの苦しみを王に味あわせるためにこそ王はこの刑を受けさせられているのである。それにしてもあまりにも残酷な仕打ちじゃあないか!王は嘆いた。しかしいくら嘆いてみても無駄だった。そして打ちひしがれてくると『海の水が真水にさえなってくれれば』、とか、『魚が自分で窓から飛び込んできてくれさえすれば』とか突拍子もない妄想的な解決策ばかりがあたまにうかんできた。 第102回
このような王の、気の強さをあらわすエピソードは数え切れないくらい国中でうわさされた。王が即位してからの数年間、歯止めがきかないくらいに我を曲げずに執政していたころ、父の代から仕え、王が幼少のころからその目付け役として王を育ててきた老大臣が、ある日あまりの暴走にたまりかねて王に諫言したことがあった。この老大臣はうやうやしく王の前でぬかずき、あらたまった調子で、国の情勢を説き、民の嘆きを伝え、未来に対する懸念を話し、王の暴政をいさめた。王は目の前で話している老大臣を、両目を大きく見開いて眺めていたかと思うと、とつぜん立ち上がって近くにあった大きな鋭い鉤で大臣の耳をつらぬいた。王は悲鳴をあげ身もだえる老大臣の耳を引っ張って壁際まで連れて行くと、つま先でないと立てない高さにあるフックにその鉤を引っかけた。不幸な老大臣は、背伸びしていないと耳が千切れてしまう高さに耳を引っかけられ、壁際で猟でしとめられた動物のようにぶらさがってしまった。そんな老大臣を目の前において王は、老大臣がまったく見えないかのように、また老大臣の痛みに叫ぶ声が聞こえないかのように、その日の執務にとりかかった。やがて半日以上がたち、体中が衰弱で震えて立っていられなくなった老大臣が自分の行為を詫び、痛みから解放されるよう哀願し始めると、王は舐めるようにじろじろと、足のさきから頭のてっぺんまでながめて、ため息をついた。 「どうかお怒りをお静め下さい!どうかご勘弁ください!もうだめです。足に力が入らんのです!」老大臣が火事場に残してきた子供を探す母親のように懇願した。 「まだ何もわかっちゃいないようだな?」王は冷ややかに大臣を見つめて言った。「あんたはまだ何にもわかっちゃいないんだよ。」 「王!どうかご容赦ください。おろしてください!もう、もう決してさからいませんので!お怒りには触れるようなまねはしませんので!」 「だまれ!きさまごときの存在がわしを怒らせられると思ったのか?そんなことはおそろしい思い上がりだ!フン!わしもなめられたもんだ。ちっぽけなきさまらが何人集まってわしを誹謗しようともわしの怒りを向けるだけの価値なんかないのだ!きさまがそこにぶら下げられておるのは、目障りなハエをはしに追いやっただけのことさ。害虫ごときにわしが真剣に怒るとでも思ったのか、おろかものめ!」王はそばにいた小姓に老大臣を壁から離すよう指先で命令するとつづけて言った。「命は助けてやるがここから出てってもらう。悪いがあんたはもうここで何もすることが残ってないんだ。」 そして大臣は罷免され、どこか遠くの地方に飛ばされてしまった。以来王の強引さを目の前で見せつけられた大臣たちは、王に逆らおうと考えることさえもしなくなった。 第101回
こんなにも王は弱気になったことはなかった。宮殿中の大臣すべてが反対することでも眉ひとつ動かすことなく、また独善的な人間がふと周りを見回したときに心を通わせて語り合える友を求めるようなひと恋しさを感じることもなく、なんでも勇猛なイノシシのように政治をつかさどることができたものだった。国旗のもようを変えるときもそうだった。それまでは国獣として国のなかで崇高な力を保有する動物とあがめられていたワシがそのシンボルとして国旗に描かれていたのだが、王が自分で見たこともない、まして他国のうわさとして聞いただけの、鯨くらいもある巨大な火を吐く野獣に魅せられ、勝手にそのデザインを作成させ、保守的な大臣はおろか、国中が反対するなか強引にその国旗を変更したこともあった。そのとき涙ながらに訴え、願いを聞いてもらえなければ辞職するとまで迫った大臣もいたし、王の宮殿の前で数百人が集団自決して血の川を流しその強固な意志を見せつけたりしたのだが、王は冷や汗ひとつ流すことなくこの大臣を退け、宮殿の前に転がった数百の死体をかたづけさせた。そんな時、王は強がりではなく、幼い子供が夢のような世界を疑うことなく信じるように、自分の力を信じてこう言った。 「わしはこの国での最高権力者なんだ。わしがすべてを決定して、おまえたちはそれに従っておるだけでいいんだ。黙ってわしがこの国をつくるのを見ておけ!」 また王は民に好かれようと努力したこともなかった。王である限り最高権力者であると信じていた王は、民衆に好かれようが好かれまいがあまり気にしなかったのだ。だから王の行政は民のために施行されたものはひとつもなかった。もちろんだからといって、好んで民を滅ぼすようなこともしなかった。ただそれらが民のために配慮されたものではなかった、ということだけなのである。王の行政に対する努力はすべて『国』という抽象的なものに注がれていたのであった。国民あっての国ではけっしてなく、国あっての国民なのであった。そしてその国の権化が王なのであった。 「わしのおかげでおまえらは生きておれるのだ。わしのおかげでおまえらは飯が食うことができるんだ!」 王はよく大臣たちと大きな長いテーブルで食事をしているとき、思い出したようにこぶしを振り上げながら叫んだ。こんなとき大臣たちは自分の存在を消すように、音も立てずに食事をつづけた。 第100回
現在の自分の凋落ぶりを嘆いた王は、その答えを探すように何もないこの部屋を見まわしたとき、あの床に仕掛けられてあるコルクに目がとまった。しかしその考えを振り払うようにすぐに目をそむけると、気分を変えるために樽の水をすくった。水はもう残り少なかった。一日一回両手ですくったとしても三日ももたないだろう。王は急におそろしくなり、すくった水をまた大事そうに樽にもどした。パンは?パンはどうだろう?王は不安にかられて部屋の中をさがしだした。そして部屋の隅に置いてある麻の袋の中をのぞいてみる。枕くらいの大きさのふくろに十個くらい石のようなパンが入っていた。肉体的に衰弱しきっている体に電流を流されたように、王は立ちすくんだ。危機感が王の体を一時的に蘇生させた。それから跳躍するようにテーブルの下に飛び込むと、板をはがし、その裏の隙間に詰め込まれている塩漬けの肉を取り出した。それは王が期待したほどには入っておらず、そして王が期待した以上に上等な肉であった。バカな男め!王はこの細工をした小姓をののしった。イスの下の肉も取り出すと、王は怒りに顔を真っ赤にし、こぶしを振り上げた。これだけの肉でどうやって生きていけというんだ?小姓にとってこれだけの量の肉を買うには、一年分にも匹敵する給料が必要だったことを王は知らなかった。チクショウめ!あの役立たず!ひとしきり怒るとやせ細った体の気力はすぐに萎え、寝床に横たわった。体力がいちじるしく衰えていたのだった。たまらないくらいのさみしさを王は感じた。そしてまた床に備えられたあのコルクを、そっと盗み見た。 |
木鳥 建欠
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