第79回
鳥も虫も巣に戻って眠るようなある晴れた静かな午睡の時間、風の音も聞こえてこないその時間に、詩人と掃除婦は静まり返った施設のなかで声をひそめながら話し合っていた。掃除婦は、ある町で暮らしていたとき、暴徒化した若者が洪水のようにその町を荒らし始めたときのことを思い出しながら詩人に尋ねていた。 「…それまでその町で普通に受け入れられていたルールのようなものが、一挙に壊れたような感じでした。それは町の有力者で、いじわるで強欲なじいさんが、貧しい若者を借金で自殺に追いやった事件から始まったんです。それでその若者の友人たちが集まって『この世に正義なんてない』って怒り狂ってしまって、そのいじわるいじいさんを集団で殺してしまったんです。それからこの町の若者たちに『正義はない』というのが合言葉みたいに広まってしまって、『正義がないなら何をやってもいい』ということでたががはずれたみたいに町で好き勝手し始めたんです…。詩人さん、あなたなら『正義はある』と言うだろうけど、この場合なぜ神は、正義はちゃんとあるということをこの若者たちに見せてやらなかったんでしょう?なぜこの若者たちに罪深いことをさせてしまったんです?」 「ああ!神はみせていたはずです。」詩人はその若者たちを嘆くように言った。「その若者たちは不幸にして気づかなかったのでしょう。」 「この場合、この若者たちは神に罰せられるのですか?」 「はい。悔悟しないかぎり、相応の罰を受けるはずです。」 「じゃあ、はっきりと正義の存在をしるせなかった怠慢はどうなるんです?若者たちの道を踏み外すきっかけになったのに?」 「だから、若者たちがすすむべき道は照らされていたはずなのです。彼らはその浅はかさから見ることをしなかった…。」 「でも道をしるすときに、その若者たちの浅はかさは考慮されなかったんですね…。」掃除婦は残念そうに言った。「詩人さんは、この世に真実があると思いますか?」 「あります。」詩人は確信を持って答えた。 「じゃあ、その真実の存在をあたまから否定するひとにどうやってそれを納得するまでみせてやることができますか?」 「深い愛でこの世をながめることを教えます。そうすればきっと見えてくるでしょう!」
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第78回
掃除婦は、花を眺めながら希望と絶望を一度にもらったかのように、放心しながら花に見入っていた。詩人は温かい日に照らされている掃除婦の顔を見て、月日が彼女の顔にけずった、重病人のような陰鬱な影にあらためて驚かされた。数十年前に見た掃除婦の顔にも確かに過酷な労働による疲労が滲み出ていたが、今の顔には幼子が継母を見るときのような深刻な不信があらわれていた。詩人には、以前の掃除婦の顔には少なくとも信仰の芽があったように思われた。大きな信仰に育つであろう芽が、確かにそこにはあったように思われた。おそらくその芽を育てる機会に恵まれなかったのであろう。そしてそんな掃除婦を詩人は不憫に思った。神の恩恵に浴することができたはずであった、そしてそれによってまったく違った人生の時間を過ごすことができたはずであったのに、反対に不毛の時を過ごしてしまった掃除婦に、深い憐れみを感じた。そして詩人は掃除婦と再会して以来、その芽をもう一度ふき出させるよう努力することを決意した。今までことごとく失敗してきたが、せめて死ぬまでに掃除婦の魂だけでも救済することを強く神に誓った。神の教えで掃除婦の心を清め、その恩恵に浴させたいと切望した。そしてそれから詩人は、掃除婦の信仰心を起こすためにその姿をどこまでも追った。周りの目も気にしないで、一時も掃除婦から離れないように、しつこく神の教えを説いた。掃除婦もそういう詩人を追い払おうとしなかった。もしかすると心のどこかで、魂を救済されることを望んでいたのかもしれない。だから掃除婦は、救済される上で障害になり得るような心にひっかかる疑問など、詩人に挑戦するように質問したのかもしれない。それは、まるでそれらの障害を完全に取り除かなければ、信仰の芽をもう一度育てる土地が用意できないかのようであった。そしてその障害がなくなった上で、掃除婦は詩人の考えを受け入れる覚悟をしていたのであろう。 それらの質問はしかし、特に特異なものはなく、掃除婦の生活からにじみ出たものばかりであった。そしてそれは詩人がその長い伝道生活で幾度となく投げかけられたものであった。 第77回
「それにしても詩人さんって、いわゆる神のしもべなんだろう?よぼよぼの婆さんなんかに熱をあげてていいのかね?」 「ふん、どうせそんなものなんだろう、聖職者ってやつらも?人生を楽しみたいのさ。さんざん自分では『苦しみを受け入れろ』とか『常に神には感謝を捧げろ』とか言ってたくせに。ほら、みて見ろよ。ふたりで花なんか摘んでやがるよ!」 掃除婦は、向かい合って詩人と話しながら、その間に咲いている小さな黄色い花をひとつ、ふたつ摘んでいた。それは掃除婦が幼いころ、道端で売りさばくために、近所に住んでいた女の子と一緒に近くの高山まで摘みに行った水なしでも咲きつづけることのできる花だった。 「これは、」掃除婦は細い目をしばたたきながら、むかしを懐かしむようにしわがれた声で言った。「私たちのあいだでは『不死の花』と呼ばれているんです。花は水を連想させるでしょう?だからよく水のない砂漠を旅する人たちが、これを買っていったんですよ。花が咲いてるの見るだけで水のないところを旅する人のなぐさみになったんでしょう。」 「この花は枯れないのですか?」詩人が花を不思議そうに眺めながら尋ねた。 「枯れにくいというだけでいずれは枯れますけど…、でもうわさでは三十年間水なしで枯れなかった花もあるそうです。」 「三十年間咲きつづけていたんですか?」 「はい。三十年間。」 「三十年ものあいだ、水もなしでどうやってその生を維持するんでしょうね?」 「母はよくこの花のことを『呪われた花』と呼んでました。死ななければならない時に死なせてくれないから…。この花を見るたびに気の毒そうに同情してましたわ。『何でおまえはいつまでたっても咲いているんだい?さっさと枯れちまえばみんなから自由にさせてもらえるのに』って。前までは母のそういう考え方が悲しかったんですけど、最近は何となく同意できるようになってきました…。実際どうなんでしょう、詩人さん?いつまでも死なないっていうのは、『呪われ』てるんですかね?おもしろいのが、この花が別のところでは『希望の花』と呼ばれていることなんです。その人たちは、この花が何もない空気から栄養を吸い取ってると思ってるんですって。まったく何もないところで気高く、たくましく咲きつづけるから『希望の花』なんだそうです。そう思ってみれば、この花から希望ももらえるんです。」 第76回
「それにしても、あのふたり何をあんなに一生懸命はなしてるんだろうね。」イボのある女が言った。 「噂では、なんでも悪魔とか天使とかの話をしてるそうだよ。」 「なんだい、そりゃ?」 「知るもんか。どうせさみしいやつらが考えることさ、死ぬ前に天使にでもなる相談でもしてるんじゃないのか?」 「あたしがちっちゃな時、婆さんがよく言ってたけど、天使になるには毎晩寝る前に神様にお祈りしなくちゃならないそうだよ。それも毎日子供のときから死ぬまで欠かさずしなくちゃならないようだよ。」 「なんだ。けっこう簡単な話じゃないか。」 「ばかだね、あんた。毎晩だよ?眠たくても病気でも酔っ払ってても死ぬまで一日も欠かさずやんなきゃならないんだよ。あんたみたいなのにできるわけないよ。あたしの婆さんの話だと、ひとりだけあともう少しで天使になれたかもしれないって人がいたそうなんだよ。その人は酒も飲まないような真面目な男だったそうだけど、たったの一日だけ孫の結婚式の日に水と間違えて酒を飲んで、昼と夜を間違えちまって祈るのを忘れてしまったんだって。気の毒な話だよまったく!あともう少しで天使になれるってとこだったのに。その人はそれこそものも話せないようなちっちゃな時から、親に寝る前に祈るようにしつけられていたそうなんだよ。それがたった一日間違えて飲んだ酒のせいで祈らなかったばっかりに、天使になりそこなったんだって。でもその人が死ぬとき初めて気付いたそうなんだけど、背中からはニワトリくらいの大きさの羽がはえてたんだってさ。本当にあともうちょっとだったんだろうね。」 「天使のなり方は知らんが、悪魔のなり方なら知ってるぞ。」白髪の男が自慢げに胸をそらした。「あんたらは平和ボケに暮らしてたからわからんだろうが、戦場で人を殺そうと向かって来るやつの顔はそれこそ悪魔そのものだよ!」 「またあんたの戦争話しかい?よっぽど血に飢えてるか、品性が下劣なんだよ。」 「なに?あんたらがこれまで平和に暮らせてこれたのも、俺達が命がけで戦ってたからなんだぞ。」 「別に誰も頼んでやしないよ。それに誰かが言ってたよ。あんたは、本当は戦場で単なる食事班だったって。戦場からかなり離れたところで飯つくってただけだそうじゃないか。」 「誰がそんなこと言ってたんだ?これを見てみろ!」白髪の男は自分の左腕の袖をまくりあげた。「これが見えるか?この傷はな、俺が最前線で戦ってたとき敵から受けた傷なんだ。連戦連勝で俺たちがある島を占領しかけてたとき、追い詰められた敵が前後のみさかいなくむちゃくちゃに突進してきたんだ!」 「あんたのこそこけて擦りむいた傷なんじゃないのかい?ヒ、ヒ。」瓜実顔の老婆が欠けた歯を見せて笑った。 「この恩知らずめ!あんたらみたいなやつらのために、俺たちが命がけで戦ってたのかと思うと腹が立つよ!感謝こそされ、けなされる筋合いはまったくないね。」 「これだから戦争屋は嫌なんだよ。押し付けがましい!戦争好きは単に人殺しがしたかったか、英雄みたいにあつかってほしかっただけなのに、感謝ばっかり要求しやがって。あんたも少しは天使になる努力でもしてみたらどうだい?それだけでもずいぶん罪滅ぼしになるさ。もしかすると今からでも死ぬときにはチョウチョウくらいの羽でもはえてるかもしれないよ。へ、へ。」 第75回
詩人と掃除婦のふたりは、再会してから毎日のように会い、掃除婦の仕事の合間をぬって時間を惜しむようにして語り合った。ふたりは決まって二人だけで会い、誰からもその会話を聞きとられないような場所にいた。だから施設にいる人々は、ふたりがどんな内容の会話をしているのか誰も知らなかったし、ふたりがいつも他人の目から避けているような様子なので、恋をしているのだと噂しあった。実際ふたりも、ふたりのあいだの会話を誰にも教えようとせず、尋ねられてもあいまいにしか答えなかった。 ふたりはいろんな場所でいっしょにいる所を目撃された。屋根裏でネズミの糞を掃除している掃除婦の横にいるのを見られたり、満月の光に照らされた大きな樫の木の下で、寄り添うように座っているのを見られたりしたし、さらにはトイレから一緒に出てくるところも目撃されたりした。当然のごとく、ふたりは深く愛し合っているものと思われた。 「見てみろよ。」白髪の男が、広い芝生の庭の隅に、ふたりだけで座っている詩人と掃除婦を指差して言った。「新婚の夫婦みてえじゃねえか。」 「どうしてあんなにこそこそしてるんだろうね。」瓜実顔をした老婆が言った。「何もあんなに恥ずかしがることないじゃないか。」 「ふたりとも真面目そうな顔してるからね。」右目の下に大きなイボのある女が言った。「人生も終わりに近づいてやっと恋したんじゃないかね。」 「ふん。」瓜実顔は鼻をならした。「ふたりとも恋なんかに縁のなさそうなみじめな顔してるからね。そのてんあたしゃそりゃたくさんの恋をしてきたよ。なにせいっぺんに五人もの男を相手にしたことがあるんだから…。」 「またその話か?初めて聞いたときは三人だったような気がしたけどな。いいかげんなことばかり言いやがる。」 「ウソなもんか!ウソでない証拠にほら、ここ。」瓜実顔の老婆は真っ白にふやけた腹を出した。「このへその横のところ。見てごらんよ。刃物で刺されたようなあとがあるだろう?ここのところ。これはそのとき嫉妬に狂った男が突然そのあたりにあったガラスの破片で、こういうふうに…ここにこう刺してきたのさ。」 「そんなのどうせなんかの手術のあとなんじゃないのか?」 「そんなんじゃないよ。いいかい、あんたらは知らないだろうけどね、腹のここんところは刺されたって別に血は出やしないんだよ。ただ猛烈に痛いだけなのさ。だから助けを呼ぼうにも声が出やしないんだ。そして道端でのたうちまわってるところを偶然通りかかった医者に助けられたんだよ。」 「へ、へ。どうせすべって転んだだけなんだろう?」 第74回
反対に詩人が掃除婦に話した、ここ数十年間の詩人の歩みもけっして平たんなものではなかった。驚くべきことに、詩人はその長い伝道生活のなか、ただのひとりとして神の教えを普及させることができなかったのであった。無信仰者に信仰を持たせることができなかった。誰一人として詩人の言葉に心を動かされなかったばかりか、関心を向けさせることすらできなかったのである。そのため詩人は毎夜、魂を救済することができないふがいない自分を神に詫びなければならなかった。もちろん詩人に熱心さが足りない、と言うわけではなかった。彼の聴衆には、詩人の熱心さやさらには誠実さも伝わっていた。事実、彼の町での評判はよかったのである。しかし信者はひとりとして増えはしなかった。そして同じ相談所にいたカルタは、信者が増えないことを詩人のせいにして、ある日別の町での伝道活動を理由に、突然詩人から離れていった。 ひとりになった詩人は町を出る決意をし、いろいろな土地に移動しては、神の教えを説いてまわることにした。詩人は特に、山奥にある年中霧がかかる水没したような村や、交通機関が途絶え世間から遮断されている寒村など、過酷な土地ばかりを選んで布教にいそしんだ。しかし結果は同じだった。どこへ行こうと誰も詩人の話に耳をかたむけなかったのである。どこに行っても詩人はまず疑いの目で見られた。過疎の村に住む人々は、たまに来るよそ者は決まって喜捨をせがんでくる僧ばかりだったので、詩人のことを信用しなかったのである。さらに詩人にとって障害になったのが、人々の長年の生活の苦労からくる倦怠感であった。人々は決まって「祈ったってどうにもなりはしない」と思い、「愛だけで生きていけるわけがない」と投げやりになっていた。そして彼らは信仰と引き換えに、石をパンに変え、砂を水に変えることを詩人に求めた。何もかも全ての疑問を一挙に解消してくれる「奇跡」がなければ誰も納得しようとしなかったのである。 「こんなにひどい生活をして、なんで神に感謝しなくちゃならないんだ?」片腕を漁の最中に失い、それでもまだ海に漂う薄いスープの具みたいに少ない魚を獲りつづけなければならない歯の抜けたおいぼれの漁師が言った。 「本当に神はわしみたいなのがこの世にいるのをしっとるのかね?」病気で体が麻痺し、村人から食糧を与えられなくなった痩せこけた若者が、寝そべったまま見えない目を宙に漂わせながら言った。 彼らにはまったくわからなかった。それはまるで彼らとは違う言語を使っているようなもので、詩人の言うことは何一つ理解されなかった。そして詩人は常に挫折を味わった。自分の前に据えられた事業が、とてつもなく困難なものだと思い知らされるたびに詩人は、誰からも見放されたような寂しさをあじわった。そのような過酷な生活を何十年と送った後、詩人はある町で病気になり、この施設に送られてきた。 第73回
再び詩人が掃除婦と出会ったのはそれから何十年も後のことで、施設の建物の中でのことだった。詩人が施設に運びこまれて来てから数年後のある日、掃除婦として雇われてきた掃除婦と再会した。その日詩人が日課となっている昼の用便のため、明るい花柄のタイルによって舗装され、消毒液と腐った魚の臭いの混じる施設の共同便所に行ったとき、その頃常につまっていた一番奥の便器を掃除している掃除婦がいることに気づいた。その便器は、原因不明のつまりにより常に水をあふれさせており、施設にいた他の掃除婦たちはさじを投げていたのだが、この新しい掃除婦は便器にかがみこむようにして懸命に水を止めようとしていた。その姿に詩人は何か見覚えのあるような気がした。それから数日間、毎日のようにこの痩せた老婆が同じ便器のつまりを直そうとしているのを見ていると、ふとあの『神の家』の裏に流れていた砂の川でたらいを洗っていた掃除婦を思い出した。痩せて黒ずんだ皮膚をしていたが、特徴的な細い目に見覚えがあった。詩人が懐かしさを覚えながら、この目の細い老婆に問いただしたところ、はたしてそれはあの掃除婦だったのである。掃除婦のほうもすぐに詩人のことを思い出した。ふたりが会ったのは古い過去のほんの短い時間だったが、ふたりは再会を喜び合った。そしてお互いが知らない相手の空白の時間を埋めていった。 掃除婦はあの『神の家』が流された砂嵐のあと、家族とともに別の町に移り住み、子供が十五人も住む家や、百六十歳にもなる盲目の老婆の家や、犬や猫ばかりをさばく肉屋などで掃除婦として働き、日銭を稼いで家族を養っていた。やがて母親が死に、弟が家を飛び出して養う家族がいなくなると、砂漠に住む富豪に雇われて住み込みの掃除婦として働いた。四六時中吹きこんでくる砂塵から、砂漠の真ん中に誇らしげに保たれている広い緑の庭を守るのが掃除婦の仕事だった。おそろしく過酷な仕事で、食べる時間や眠る時間を割いて、水をかけて緑の葉の上に積もる砂を払い落としたり、遠くから運びこまれた肥沃な黒い土に黄金色の乾燥した砂が混ざらないよう掃き分けたりしなければならなかった。掃除婦の献身な仕事ぶりによりこの庭の木々や花々は、掃除婦が働いていた間は常に生い茂り一本たりとも枯れることはなかったばかりか、砂漠に迷う人間や動物たちにとってこの緑の庭は遠くからでも道しるべとなったりした。しかし長年のつとめにより体が衰え病気がちになると、この砂漠に住む富豪は追い出すように掃除婦をここの施設の掃除婦として売り飛ばした。詩人が、飛び出していった弟はその後どうなったのかたずねると、掃除婦は「風の噂として聞いたこと」とことわっておいて、政治家となり、今となりの州の知事として強欲な政治をして、たくさんの貧しい人間を泣かせている、と話した。別れてから後、姉のもとには一度も連絡をよこしたことがないという。 第72回
その夜、詩人は掃除婦の申し出を断って、まだ寒さの残る砂漠のような町外れの中を歩いて帰った。自分の部屋に戻ると詩人は、掃除婦の家族のために祈り、疲れ果てた体を木の板をひいただけの粗末な寝台に横たえた。詩人は一晩中、見えそうで見えない神の横顔を懸命に追いかける夢を見てすごした。その横顔は、あとほんの少しの努力で見えるような気がするのだが、そこから先はどうあがいても無駄だった。届かない自分の尻尾を追いかけているようなもどかしさがあった。 次の日、夜明けから風が吹き始め、砂嵐が起こった。砂がにごった水のように町を覆い、潮のように流れる砂がすべての音をのみこんだ。町の建物は強風と砂にあおられてきしみ、砂はどんなに頑丈な壁の内側にまでもしみこんでいった。砂の浸透性はすさまじく、ほとんど水のように建物の中にいる人々の食べ物や服の内側にまで忍び入った。実際、年に数度起こるこの砂嵐で、砂に溺れて死ぬものもあった。こういう日、町の人々は息をひそめて家にこもり、必要にせまられる以外は、外出を避けた。翌朝風が止んで夜が明けると、人々は砂嵐が去ったあとの習慣として町角に集まり、どこの誰が行方不明になったとか、誰の家が嵐によって倒壊したかなど噂を伝え合った。詩人は、相談所の近くの人だかりで、詩人が先日訪れた町外れの並木道の先にある赤い屋根の家が、昨日の砂嵐で砂の川があふれ、家を丸ごとのみこんでしまったことを聞いた。今、近辺に住む人々が砂を掘って中に住む老人を助けるため救助活動を行なっているらしいが、砂の流れがきつく難航しているらしい。これを聞くと詩人はすぐ、この『神の家』に向かった。うそつきと掃除婦のことが心配になったのも確かだが、ついに会うことができなかったあの老人(または神)のことが気がかりだったのだ。もしかすると詩人は心のどこかで奇跡が起こる現場に立ち会うことができるかもしれない、と期待をよせていたのかもしれない。飲みこまれた砂の川の底から何か起こるかも知れない、と子供じみた期待があったのかもしれない。ちらちらと心のなかにあらわれる期待に詩人は気付かないふりをした。はやる気持を抑え、目的地に向かって歩いていると砂が混じっているかのように関節がきしんだ。 目的地の並木道には、救助活動を行なっている人々がまだ忙しそうに動きまわっていた。並木道の先では、確かに赤い屋根の家がなくなっていた。人々は今は掘り起こすことをあきらめ、先日より勢いが強くなっている砂の川の流れの中に幾本かのサオを差し込んで、手応えを探っていた。しかし家らしき手応えはどこにサオを差し込んでみてもなかった。老人とともに家は、この黄色い砂の流れの中に消えてしまっていたのだ。 「おそらくもう手遅れだろうな。気の毒に。」詩人の横にいた男がつぶやいた。 「ここに住んでいた老人をご存知だったんですか?」詩人がたずねた。 「ああ、古くからここに住んでてな。ゴミにまみれてきたないじいさんだったよ。家から一歩も出たところを見たことがない。」 「いくつくらいの方だったんですか?」 「何歳だか知らないが、うちの婆さんが子供の頃からこの家でゴミといっしょに暮らしてたらしい。そしてその頃から、どこから見つけてくるのか知らないが、どうにもならない貧乏人ばかり集めて家を掃除させてたそうだよ。」 詩人は砂の川の周りに集まる人の中に、うそつきと掃除婦を探したが見当たらなかった。ある話によると、うそつきは今朝がた『神の家』がこつ然となくなったのを見ると、その場で自分の特異な経験を人々に伝える『神の伝道の旅』に出ることを決意し、その足で家族とともに幼い子を連れてどこかに行ってしまったらしい。掃除婦に関しては誰も何も知らなかった。 そのまま詩人は夕刻まで野次馬に集まった人々とともに、『神の家』のあった場所に立ち、時とともに緊張感がゆるみ動作が緩慢になっていく救助活動を見守った。そして日が沈み救助活動をしていた人たちがいなくなると、掃除婦の家を訪ねて見る気になり行ってみたが、家の中は家財道具がすべて運び出されてあり、そこにはもう誰もいなかった。 第71回
「知っているよ。あんたたちの本心は。本当のところあんたたちはこの世の中の不公平に不満たらたらなのさ。あたしたち以上にいらいらしてるんだ。そしてあんたたちは結局あたしたちをなぐさめる振りをして、世の金持連中をおどしたいだけなのさ。『今その富をあきらめなければ、あの世で地獄の業火にみまわれるぞ』ってね。まあ『だからその金を俺たちによこせ』とまであつかましいことは言わないにしても(でもあんたたち坊さんのなかにもそう言う人がいるのも知ってるけどね)『せめて富をあきらめてわれわれとおなじ状態になれ、なぜなら富は人間を汚し、貧は人を洗うから』って言うんだろ。でもね、それはよそでやってくれたらいいじゃないか。なんであたしたちまで仲間に入れようとするんだい?別のところでやっておくれよ。いいんだよ、別に不公平でもなんでも。あたしは別にあんたたちみたいに見苦しくなりたくないからね。だってそうじゃないか?ほかにこんな見苦しいことってあるかい?弱くて未練たらしいやつらが大勢あつまって、自分たちより人生を楽しんでそうなやつらを指差して『ずるい、ずるい』って子供みたいにむずかるんだから。そう思わないかい?あんたも何とか言ってやりなよ。」母親は娘に向かって言った。 娘は申し訳なさそうに詩人を見ると、母親には答えないで黙っていた。 「ふん。別に信仰告白じゃないから言いたくなきゃ言わないでいいけどね。でもこの子だってきっとあたしと同じ意見だよ。あんたなんかに惑わされるには過ぎるくらいのほこりを持ってるんだ。」 「なぜあなたは神の教義をわざとそんなふうに意地悪く曲げてみせるんです?富が人を汚すのは、それが人の心を惑わすからで、貧が人を清くするのは、それが人の愛を育むからと、あなた自身がよく知っているはずじゃないですか。それに…、それにあなたは。本当は神を信じているはずです。」 「ハ、ハ。あんたたちがよく使う手だよ。『実は』とか『本当は』とか『心の底では』とか言って惑わそうっていうんだろ?でもいいかい?あたしは朝から晩まで手のひらがひび割れるくらい洗濯して、この小さな息子ひとりも満足に食べさせてあげることができないけど、あんたの言うカミが必要だともおもわないね…。」 第70回
風ひとつおこらない静かな夜だったが、家の中にともるロウソクの火は母親の感情の揺れとともに大きくゆらいでいた。そしてその火によって背後の壁にうつるそれぞれの影は、水中で溺れているようにもがいていた。息子は顔色も変えずに母親と詩人を交互に見つめ、掃除婦は心配そうに母親と詩人の会話を聞いていた。 「知っているよ、知っているよ。あんたの言うカミはあたしたちが生きてるこの世の中でたくさん、それこそその人が耐え切れないくらいたくさんつらい思いをさせて苦しんで死ぬことをあたしたちにもとめてるんだろ?ちょっとやそっとの悪人じゃ思いもつかないような手の込んだやり方で、あたしたちをぎゅうぎゅうしぼりあげたあげく、『そういう不幸も必要なんだ』って言うんだろ?『弱いものの方が強い』とか『損をしたほうが得だ』とか言って、なんにも見えない場所を指差してそこがどれだけきれいで素敵で満足のいくところかあたしたちをなっとくさせようとするんだ。でも不公平じゃどうしてだめなんだい?どうして『今の苦労が後に報われる』とか言ってごまかそうとしなきゃだめなんだい?不公平でいいじゃないか。なにもバカにするみたいにペテンにかけなくたって…。そんなにあたしたちがバカに見えるかい?そんなウソみたいな話を聞いて喜んで飛びついてくるとおもったのかい?いいじゃないか、別に金持ちがのんびり生きてる横で貧乏人が苦しんでたってさ。それなのにあんたたちはおせっかいに貧乏人を抱き上げて『心配しなくてもあんたの苦しみはあの世で報われるが、あそこで良いおもいをしている金持ちは地獄で業火に燃やされるんだよ』なんて言ってなぐさめるんだよ。でもね、こんなのはなんのなぐさめにもならないのさ。ただみじめになるだけさ。あたしたちが、金持ちが燃やされるのを見て喜ぶとでもおもってるのかい?」母親は憎々しげに笑って詩人の顔をうかがった。 そして詩人が何か言おうとすると母親はそれを遮ってまた話はじめた。 |
木鳥 建欠
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