第51回
その時、待合室のドアが開いて大きな体を揺すりながら帽子が入ってきた。帽子は顔をしかめ、ため息を何度もつきながら待合室の窓まで行き、まわりに聞こえるくらい大きな声を出しながら窓を開けた。 「ほんとうにどうしようもないね。何回おんなじことを繰り返したら気がすむんだろうね、まったく!」 開け放たれた窓からは雨の音がさらに鮮明になって部屋を満たし、湿った冷気が洪水のように部屋にあふれだした。むせかえるような熱気にのぼせていた住人は、冷水を浴びせられたように、窓から入る空気に身をよじりだした。 「帽子さん、後生だから窓だけは閉めてくれんか?」年老いた男がやっと声を出してうめいた。 「そうだ。お願いだよ。お願いですよ。」老婆がしおれた声で静かに泣き出した。 帽子はそれらに対して毒々しい微笑をたたえるだけで、返事もせずに、むせかえすような空気に弱り果て動けなくなった住人達を両わきに抱えて部屋から引きずりだしにかかった。部屋の空気は冷ややかな冷気にとって変わられたが、雨の音は悪魔の足音のように住人たちを震え上がらせていた。枯れ枝のようにやせた老婆は、細い腕で自分の膝をかたく抱え込んで、連れ去ろうとする帽子に抵抗していた。 「いやだ、いやだ。せめて医者に一目診てもらわせてくれよう。」 部屋から連れ出されなかった残りの住人は、ねばり強く医務室で診察してもらうのを待っていた。 駅長は親指の爪を噛んでいた。そして帽子に連れ出されていく人たちをながめ、雨の音を聞き、うつむいて話しつづけるうそつきを見た。待合室は、帽子が忙しく行き来する以外、医務室へとつづくドアの開閉する音だけが雨の音にまぎれて響いていた。駅長の順番はまだこない。駅長はまた聞こえるように重苦しいため息をついた。窓の外は暗く、夕暮れが訪れていた。
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第50回
駅長はため息をついた。うそつきはそれを聞こえていないふりをした。待合室に集まった人たちは次第におとなしくなっていき、それぞれの場所で釣り上げられた魚のようにぐったりと座っていた。 「でもわし自身そんなこと、微塵も信じちゃいなかったけどね。」うそつきがつづけた。「まだ何年も昔の話だが、こう見えても昔は妻と子供がいたんだ。しょっちゅういがみ合ってたよ。けどぜんぶわしが悪かったんだ。ひどい家に住まわせて、みっともない服を着させてずいぶんと恥をかかせたんだから。さらにありったけの金で酒を飲んでたんだからね。そしてこういうこといっさいをわしはいつも悪いことと知っていながらやっていたんだ。わしの子供―当時はまだ幼かった息子―なんて生まれてからほとんどわしとしらふで会ったことがなかったから、わしを見るたびにおびえてびくびくしながら隠れてしまうしまつさ。まだほんのちいさな自分の息子に、鬼でも眺めるように物陰から上目遣いで見られるなんて罪深いことなんだよ。本当に地獄のような毎日だった。母ちゃんがいつもわしの面を見るたびに口癖のように言ってたな、『せめて主人面だけはしないでくれ』って。けど主人面なんてとんでもない話だ。いつも母ちゃんの前ではびくびくしていたんだから。とても良い人間だったけどこわい母ちゃんでね。すぐに隣近所に聞こえるくらいの大声を出すんだ。それに酒飲んでフラフラになっていても、母ちゃんのみすぼらしいよれよれの服を見るたびに良心が痛んでたんだ。心の中で手を合わせて泣いてたんだよ。本当さ。今から考えると間抜けな話だが、わしは心の奥底で自分は本当は真面目で善良な人間なんだ、と信じて疑わなかったんだ。今はほんの少し悪に心を惑わされているだけで、その気になればいつでも本物の正しい道に戻ることができる、と信じていたんだ。そして戻ることさえできれば、家族だってすぐに自分のことを許してくれて仲良く上手くやっていけると思ってたんだ。そしてある日、その時がきたんだ。自分の今までの間違いから正しい道に戻してくれる絶好の機会が訪れたんだ。わしの遠い親戚がわしらの生活を見るに見かねて、わしにある仕事を斡旋してくれたんだ。『これを機会に今までのでたらめな生活を改めろ』って言ってね。母ちゃんはその人を拝まんばかりにありがたがって大喜びしちゃって、それまでわしを汚物みたいにさげすんでいたのに、突然わしにとりすがってきて、真面目に生きてくれって頼み出すんだ。『これを逃したらもう二度と誰もあんたを救っちゃくれないよ』って。もちろんわしにだって予感があって、『この機会を逃したら一生ダメな人間になってしまう』って思ったからそれを潮に真面目になろうと決意したよ。仕事は別に難しいもんじゃなかった。ただ一人暮らしのじいさん家に行って、掃除をするだけさ。毎朝決まった時間に行って、そんなにも大きくないじいさんの家を掃除するんだ。そのじいさんはいつも同じ部屋の同じ場所で肘掛け椅子に黙って座っていて、わしが部屋に入るとふさふさした眉毛の下からじっとこっちを見るんだ。その部屋はいつも散らかってて嫌な匂いがしていたな。そしてどういうわけか、毎朝行ってみると泥棒に入られたみたいに部屋がひっくり返っているんだ。それも大地震の後か大人数人が暴れまわった後のような荒れかたなんだ。けどじいさんは、イスの上で生活しているみたいに、いっこうに動いた気配がない。それにじいさん自身病弱そうで湯飲みすら持てなさそうなんだ。『これはじいさんがやったのか?』って何度か訊ねてみたが、じいさんはじっとこっちを観察するように見てるだけで返事もしない。気味の悪いじいさんだったな。それでも毎朝行って、全部もとどおりになるまでかたづけてたよ。何度かじいさんに『何を食ってんだ?』とか『家族はいないのか?』とか話しかけてみたけどまったく応えないんで、少しずつ慣れてくるとじいさんの存在を忘れて、一人で掃除してるみたいな気分になっていったな…。そして始めの数週間は意味もわからず一生懸命やってたけど毎日毎日わざとみたいに散らかってる部屋をかたづけてると、嫌気がさしてきてね、一ヶ月くらいたつともう行かなくなったんだ。はじめの決意もどこかに消えてしまって、なんだか馬鹿らしくなってきてね。いやがらせか、バカにしてるんだと思ったよ。だから毎朝自転車に乗って出かけるんだが、じいさん家につづく人通りのない並木道にくると、日暮れまでそこで寝転がってたんだ。数日もすると母ちゃんにばれて、抱きつかれたり泣きつかれたりして何とか仕事に戻ってくれと、とりすがってきたんだけどもうだめだったな。なんだかんだ言い訳を見つけていかなくなり、あげくのはてにはまた酒にも手を出してしまった。すると、ばちがあたったんだろう、息子が原因不明の高熱にうなされだしたんだ。もちろん医者に見せる金なんかないし、あったってわしが飲み代につかった。息子が真っ赤な顔してうんうんうなっている横でわしは黙って酒を飲んでたんだ。愛想つかした母ちゃんはわしに呪いの言葉をかけながら息子の看病をしていた。そしてわしは息子の苦しむ姿をわざと視界の端に入れながら飲んでたんだ。まるで息子を視界から外しながら酒を飲むのが悪いことかのようにね。その頃にはもうわしは悪魔に魂を渡したような気分で酒を飲んでたんだ。心の中で『なにもかも滅んじまえばいいんだ!』って叫びながら。でもどういうわけか、ぎりぎりの一番奥のところで自分でも信じられないようなことを信じてたんだ、『まだいつでもわしは良心を取り戻して仕事に戻ることができる。この手にもったコップを放して、体を起こして、自転車にまたがれば、そうすれば息子の治療費を稼いでくることができる』って。言い訳か信仰かそれはわからんよ。でも暗闇の中、遠くに見える小さな光のように、幻じゃあなく、確実にそれを見ていたんだ。そしてそれだけを頼りにしていた気がする。それで…それでわしはどうしたと思う?」 第49回
それでも誰も窓を開けようとしなかった。皆それぞれ蜜に集まるアリのように窮屈そうに部屋に閉じこもって、自分の順番の来るのを苛立ちとともに待っていた。医務室は三つあり、それぞれのドアは常に開閉し、大急ぎで患者を吸い込んでは追い出している。しかしそれでも待合室にいる人数はいっこうに減らなかった。罵声が飛び交うなか、うそつきは声をひそめて話しつづけた。 「わしはね、詩人さんと知り合いなんだよ、実は。驚いたね。まさかこんな所でまた出くわすなんて。ずいぶんと長い間会わなかったけど、わしはすぐに気付いたよ。廊下で何度か顔をあわせたが向うは気が付いてなかったのかな?声もかけてもらえなかったよ。いや、でもそんなはずはない!きっと気付いたんだけど、知らぬふりをしたんだ!わしは彼の作ったあるグループを知っていて近づいたんだがね、今からあんたに話す神との邂逅の話をしてやったら追い出されたんだ。あの人は、この手の話が大嫌いなんだな。自分では福音を伝えているつもりでいるのに、人がする神様の話しは嫌いなんだ。おそらく性格が潔癖なんだろうね。潔癖な人は常にすべてのものを薄汚いものと決めつけて、うたぐり深い目でみてしまいがちだから。ところで駅長さんは、神はいると思うか?」 駅長は何も応えなかった。かといって、露骨に嫌な顔もしなかった。少し間をおいてから簡単に「知らない」とだけつぶやいた。駅長は息苦しいこの部屋の空気に吐き気がする思いだった。一呼吸ごとに体が弱っていくのが感じられた。 「そうか…。」うそつきは、うつむいて自分の魚の目をいじりながら言った。「じゃあ、わしがこれから言うことも、あまり信じてもらえんだろうな。でもね駅長さん、これだけは言っておくけど、永遠のものは確かにあるんだよ。おそろしいほど昔から、おそろしいほど先の未来をつらぬいてるものがあるんだ。それが人間にとって良いものか悪いものかそれはわからんけど、確実にそれがあって、どういう理由でか我々を支配してるんだ。そしてわしらはそれに対してまったく何もできんくらいちっぽけで、ただただそれに黙って従うだけなんだ。こういうことを信じてもらえないかな?本当にちっぽけなんだよ我々は。ある偉い人が言ってたんだが、そういう永遠のものを証明する力は我々には与えられていないらしい。どんなに頭をひねくってみたって、平行線が交わらないようなこの三次元の空間ではそういう神秘的なものは見れないそうなんだ。証明できないものを信じなきゃならない。だからいっそう我々の信じる力を試されるんだ、と言う人もいる。…けどごくまれに何かのひょうしにこの平行線が交わる場所が我々の日常生活の前にひょっくり現れることがあるんだ。」 第48回
「どうやら長いこと待たされそうだなあ。」 偶然隣に座っていたうそつきが話しかけてきた。うそつきは足の裏にある魚の目を指先でつまんでいた。そして小さな充血した目を駅長に向けた。疲れているのか、鼻とあごがとんがって見えた。 「雨が降るのは誰かが死ぬ前兆だと聞いたよ。」うそつきは声をひそめて言った。「周りの話を聞いていると、どうやらわしがその候補に上がってるらしいね。」 駅長は気の毒そうにうそつきを見つめた。こういう場合に出すなぐさめの言葉が出てこなかった。 「けどわしじゃあないよ。」うそつきはつづけた。「体調は悪そうに見えただろう?確かに良くないけど、実はね…それほどでもないんですよ、ヘ、ヘ。新参者はいろいろ警戒しないといけないんでね。それにわしはあるお告げを聞いたことがあるんだ。ちょっと込み入った話なんだけど。わしはね、ここだけの話だけど神にも悪魔にも会ったことがあるんだよ。」 駅長は強い刺激臭を嗅いだときのように背筋を伸ばし、目を大きく見開いた。待合室にいる住人達はそれぞれの不安やいらだちなどにかかりきりで、誰もこのうそつきの話に耳を傾ける心配はなかった。部屋は窮屈で、駅長とうそつきは体の一部がくっつくくらい身を寄せ合っていた。駅長はだまって話を聞いていた。 「そんなわしのいろんな経験によるとね、わしはまだ当分死なないはずなんだ。どのくらいかはっきりわからないけど、まだ最低十年は生きられるはずなんだよ。」 住人の汗とため息が充満している待合室では、誰かが苛立たしい声で窓を開けるように怒鳴っていた。 「換気しないとやりきれないねえ。これじゃあ医者に診てもらうまでにくたばっちまう。」 「できればくたばって欲しいもんだ。」別の誰かが別の方角から叫んだ.。「そうすりゃ雨も止んでせいせいする。」 「そうだ!そうしてくれんかい?ここでこんな風に待ちつづけるのはもうこりごりだよ。」 「うるさいね。頼むから黙ってておくれよ。そうでなくてもここは耐え切れないんだから。」 第47回
「降ってるよ。また。」坊主は窓の外を眺めながら言った。「連中はえらく焦ってる。他愛のないやつらだな。へ、へ。」 駅長は、重い体を苦労して起こし、次に死ぬのは誰なのだろう、と坊主に訊ねた。 「さあ誰なんだろうね。けど少なくともあんたじゃあないだろう?あと三日あるんだから。」 駅長はしかし、自分の今の体調に自信が持てなかった。昨夜からろくに眠れていない上に、ハエに午睡の邪魔をされたため疲労がそのまま骨にからみつき、体が自由に動かせなかった。体中の関節に砂がたまっているような、不愉快でもどかしい状態にあった。 「おそらく、向かいのうそつきだろう。」坊主は無表情に言った。「着いたばっかりで気の毒だが、ありゃ長生きしないよ。それにしても、今回はやけに間隔が短いな。こんなに雨に降られると周りのやつらがうるさくてしかたがないよ。」 窓のすぐ外にある濡れた木蓮の花を不思議そうに見ていた坊主に駅長は、坊主も雨で不安になるのかどうか訊ねてみた。 「一応これでも仏に仕える身だからね。へ、へ。」坊主は得意そうに応えた。「それにおれより老いぼれてるのはまだたくさんいるだろ?自分の順番まではまだ時間があるはずだ。」 そして坊主は振り返ると、これから入浴しに行くが駅長も来るかどうか訊ねた。駅長は体調がすぐれないから医務室に行く、と応えると、坊主はつまらなそうに頭を撫でながらすぐに出て行った。 駅長が部屋を出て、だるい体を慎重に医務室に向かって運んでいくと、廊下にはたくさんの住人がたむろしているのが見えた。その横を通り過ぎるたびに、住人たちの絶望の声や悲嘆のため息が聞こえてきた。抱き合って泣いているものもいれば、やけになってふてくされているものもいる。感極まったものは、廊下に転がり意味不明の叫びをあげてもだえている。駅長は医務室に向かって、枯れた木のようになって廊下にあふれている住人たちの間を抜けていった。 医務室に入ると、待合室は医者を待つ住人たちでいっぱいだった。待ち合い用の長椅子はすべて埋めつくされており、あぶれ出たものたちはそれぞれ床に座ったり寝転んだりしていた。皆それぞれ緊張した面持ちで医者に診察してもらうのを待っていた。部屋はため息と不安と悲嘆が息苦しいくらいに充満していた。駅長は床に隙間を見つけると、そこにゆっくりと腰を下ろした。 第46回
この建物では昔から、雨が降ると必ず誰か住人が死んだ。雨が死の到来を告げる。死ぬから降るのではなく、降るから死ぬのである。雨は住人を恐怖におとし入れた。雨の日の翌日、住人のうち誰かが必ず死んでいるからだ。雨は有無を言わさず、住人の命を奪い去っていくように思われた。だから雨が降ると住人たちは決まって額を寄せ合い、膝を突き合わせ、声をひそめて不吉な雨がさし示すその相手を探りあった。体が弱りきり動けなくなった住人は、外に雨の音を聞くと、愕然と自分の死期が来たことをさとった。気が弱い住人は雨が降るたびに血の気を失い、自分よりも弱っていそうな相手にその矛先が向かうことを祈り、周りからのなぐさめの言葉を待った。前回雨が降ったのはおよそ6日前、坊主の向かいの部屋の住人が死ぬ前日だった。そのときにもこの建物の中では、群れの中に狼が紛れ込んだかのような混乱が住人の間で起こった。建物の中に緊張がはしり、翌日坊主の向かいの部屋にいる住人が死ぬまで皆羊のように落ち着くことなくさまよい、うめき、悩んだ。そして今日のこの突然の雨も、予告なしのおそろしい迫害者の来訪のように建物の住人をあわてさせた。 午睡の時間を終えた住人達は、外の雨に気付くとあわてて部屋を出て、廊下でかたまり合ってぶつぶつと静かに降りつづける雨について話し合い始めた。彼らは一様に軽い興奮状態にあった。そして次の犠牲者を推測し合い、その犠牲者が自分でないことをひたすら願った。風のない中を降る雨は空から垂直に落ち、緑の芝生の中へと音もなく染み込んでいく。 午睡の後の時間は、入浴と診察の時間にあてられていた。しかし住人達は入浴することも忘れ、少しでも自分の健康状態に自信を持つため、救いを求めるように医務室になだれ込んで行った。 駅長が窓の外の雨を眺め、部屋の外でのあわただしさを聞いていたとき、突然合図もなしに坊主が部屋に入ってきた。特にあわてている様子もなく、毛のない頭を撫でていた。 第45回
駅長は、ハエに聞こえないくらいの大きさでうめき声をあげた。 「なんですか?なにか言いましたか?」 「…好きな花はボタン。好きな食べ物は肉詰めのパイ。好きな季節は冬。好きな体位は正常位…。」 「どうかしたんですか?」ハエが驚いて大声をあげた。 「もう帰ってくれませんか?」 「よっぽど嫌われたみたいですね。まあいいでしょう。まだ話したいことや聞きたいことがあるんですが。例えば言葉と真実の関係とか…。あなたは、言葉で真実にたどり着くことができると思いますか?それとも、真実自体が言葉で作り出されたまやかしものだと言われたらどうします?だって人間って真実がことのほか好きでしょう。それがなかったら溺れでもするかのようにすがってるじゃないですか。ねえ、あなたも真実が好きなんでしょう?」 駅長は答えずに、両手で顔を覆った。するとまたもや静けさが部屋を埋めた。しかしハエはまた黙って向かいにいるにちがいない。今度は駅長も我慢強く待った。両手を顔から放さずにゆっくりと呼吸した。鼻と手の隙間から、かさかさに乾いた呼吸が通り抜けていくのが聞こえた。あたりの様子をうかがってみたが、ハエはかさりとも物音を立てない。数分間もそのままの状態でいると、不思議と駅長はまどろみ始めた。まくらと脳が溶け合うような心地良さのなか、久しぶりに眠れそうな気がした。呼吸が深く安定し、悲しげにさまよう象があたまの奥のほうに現れた。…象、甘やかされた象、近づく危険に気付かない象、禿げた大地に残るやせた草をむしり食べる象。象はやがて草原に沈んでいく。鼻を高く上げ、両足を大地に踏みとどまらせようとするが、体は傾きながら沈んでいく。やがて鼻の先だけ大地に残して、大きな体は飲み込まれてしまった。そこから苦しそうに息をついでいるのが聞こえてくる…。そして唐突にハエが沈黙をやぶった。 「今日は引き上げるとしましょう。お疲れのようですからね。また近いうちにきます。…そうそう、明日はきっと騒がしい一日になりますよ。ほら、外を見てください。」 駅長は驚いてハエを見つめた。そして両手を顔から放した。外は知らぬ間に雲に覆われており、この地方では珍しい雨が音を立てないように降っていた。 「雨が降ってますよ。それにあのにおいもぷんぷんするし。わかるんですよ。我々には。では退散するとしましょうか。ときにすいませんが、窓を開けてもらえますかね?」 駅長は大儀そうにベッドから起き上がり、窓を少しだけ開けた。 「それでは失礼。」 小さな隙間からハエが器用にすり抜けていった。ハエは雨にさからうように、灰色の空に向かってまっすぐ飛んでいった。窓からは湿った空気がすべり込んできた。駅長はもう一度布団にもぐりこんだが、もう眠気は感じられなかった。 第44回
ここでまたハエは壁から離れ、駅長の布団の上へと移動した。 「ねえ、どうしました?こういう会話はお嫌いですかね?」ハエは心配するように言った。「それとも体の具合でもわるいんですか?」 「何のためにそんな話を…?」駅長は壁に顔を向けたまま、つぶやいた。 「ふむ、私はいままで人間の不器用さについていろいろと考えてきたのです。まったく融通がきかない生物なんですよ。だってそうじゃないですか。例えばですね、…そう例えば犬が死刑を宣告されたと想像してみてください。いいですか?たとえ世界中の犬を集めて死刑を宣告しても、一匹だって動揺しませんよ。けど人間ならどうでしょう?どう思います?」 駅長は答えなかった。 「この世に存在するどの動物を取ってみたって、野生の象に会いたいなんていう願いは持たないだろうし、景色を見て感動することもないでしょう。人間は言葉を持ってからずいぶんと便利になったようだけど、融通がきかなくなったのも本当でしょう?言葉を話せない人間は感動も感激もしないらしいですよ。別の言い方をすると、言葉があるから感激するし、ある景色を見たいと思うし、それを見てきれいだとか思うんじゃないんですかね?それに極端なひとなら、自分がいま本当に存在してるのか否か、なんて間抜けな質問を投げかけては悩んでいるんですからね!」 ここでハエは突然話すのをふっつりと止めてしまった。あたりは静まり返り、今まで誰かが駅長に話しかけていたことすら疑いたくなるくらい、部屋には何の気配も感じられなくなった。駅長は壁に向けていた顔を慎重に持ち上げ、閉じていた目をゆっくりと開いた。ハエは駅長の方を向いて、すぐ前の布団の上にとまっていた。駅長は急いでまた目を閉じた。 「そんなに恥ずかしがらなくたっていいじゃないですか。私に話しかけられるとそんなに困ったことでもあるんですか?でも、それ、まさしくそれですよ。その不器用さが人間の特徴なんです。あなたは昨夜、3日後の死を宣告されましたね?正直に言ってどうなんです?どういう感想をお持ちですか?」 第43回
ここでハエは、相手の様子を探るように一拍おき、天井から横の壁に飛び移った。 「そして反対に別のある場所で、あるちいさな動物園で育てられていた象がいましたが、いろんな理由からもとの野生に戻してやることに決まり、この象がある原野に返されてしまったのです。これなんかは人間によくある感傷癖でしょう?勝手に連れてきておいて突然『こんなちいさな檻の中に閉じ込めておくなんて気の毒だ!象は本来広大な草原で生きていくべきなんだ!』なんて言ってしまうんですから。この気の毒な象も同じでした。突然勝手な理由で見知らぬ土地に放り出されてしまったんです(もちろんこの際この人間たちの良心は痛みませんよ)。しかし幼い頃からぬくぬくと人間に育てられてきたこの象は突然の環境の変化に戸惑い、厳しい大自然の真っ只中に取り残され、悲しげに泣き声をあげることしかできません。実際その象は、自分で何を食べたらよいのかすらわからない状態だったのです。そしてそこをまったくの偶然にあの男、いままでの生活を捨てて象を見にきたあの男が通りかかったのです。男は草原から草原へと渡り歩きつづけ、疲れきっていました。すると突然目の前に念願の象が現れたのです。男は自分の目を疑いました。夢にまで見た野生の象がそこに、すぐそばに立っているのです。象は自分の長い鼻をもてあまし、持ち上げてみたり巻いてみたりしています。平たい耳をばたつかせ、大きな頭を左右にゆらゆらと揺らしています。男は狂喜しました。こういう人間にはえてして感激家が多いものですが、この男も例外ではありません。この地に射す強い日差しの中、干からびるくらい照らされつづけてきたのに、今この男の両目から大粒の熱い涙が湧きあがってきたのです。男は目の前に、この広大な原生の大地を歩きつづけ生き延びてきた象を見ていると思い込んでしまったのでした…。」 ハエはいったん話を区切り終えると、効果をねらう演説者のように体ごとさらに駅長に近づき、低い声でささやくように話をつづけた。 「男はこの動物園の象を見て、今までの苦労が報われたと思ったのです。感激して心を震わせ涙を絞りだしたのです。どうです?おもしろい話でしょう?この夢見る人物にとってこの象はまぎれもない本物の野生の象だったんです。もし仮にこの男が本物の野生の象を見たとしたら、どうなると思います?おそらく彼は内面に同じような感激を味わったことでしょう。対象がどうであれ彼の心にわき起こった満足と感動と圧倒的な自然を目の当たりにしたときに起こる高潔な心の震えの方が、はるかに重要な問題なのです。とすると、いわゆる『真実』とかいうものは特に必要なかったわけです。さしあたり彼のまわりには誰もこの真実を教えてくれる人もいないわけだし、『勘違い』も真実と同じくらいの効果があったのです。」 第42回
駅長は黙り込み、目をかたく閉じた。 「例えば、好きな花の名前とか?」 駅長は目を閉じたまま返事を返さなかった。 「じゃあ好きな食べ物は?」 駅長はやはり返事をしなかった。 「それじゃあ好きな季節?」 駅長はぶつぶつとなにやらつぶやきながら寝返りをうった。駅長の耳に、ハエが飛び上がり、駅長の顔のすぐそばまで近寄ってきたのが聞こえてきた。 「困ったな。好きな体位とかはどうです?」 駅長は苛立たしげに肩を揺すった。ハエは飛び上がったが、すぐまた着地した。そして少し間をおいてからまた訊ねた。 「じゃあ、好きな動物は?」 「ゾウ。」駅長はさそわれるようにつぶやいた。 「象!」ハエはうれしそうに繰り返した。「象ですか。ぴったりですよ。象を好きな人はだいたいひとりよがりで思慮に欠ける人が多いんです。おや、失礼しました。気を悪くしないでくださいよ。悪気はないんだから。ところで象のどこに惹かれるんです?大きな体ですか?それとも長くて特徴的な鼻ですか?それともあの慈悲深そうな濡れた目ですか?」 駅長は壁の方を向いたまま、かたまったように答えなかった。 「どういうわけか、犯罪にはしる人や心に罪悪感を抱く人たちはえてして象に慰められるんですよ。知ってましたか?刑務所や精神病棟で象にまつわる本をそろえたり象の映像などを定期的に流したりすると、そこの住人の心が安定したりしてくるらしいんですよ。我々にとっちゃあそういう感傷癖は理解の及ばないところですけどね。そうだ、象にまつわる面白い話をひとつ聞かせてあげましょう。これはなかなか興味深い話ですよ。人間の奇妙さについて考えさせる、という点では絶好の話になります。時間は取らせませんので、聞いててください。」 こう言うとハエは駅長の顔から離れ、真上の天井にはりついた。 「ここにある中年の男性の方がいたのですが、彼の年来の夢は広大な草原で野生の象を見ることだったのです。それも動物園などにいる人工的に連れてこられたものじゃあなく、ただっぴろい草原をのし歩いているやつが見たかったのです。けど残念なことに彼はそんな原生の地に行く機会にすら恵まれなかった。しかし人生の折り返し地点を過ぎたあたりで突然彼はある恐怖にとらわれ、このまま自分の夢を達成せずに生きていくかも知れない、と心配になったのです。自分の人生が息苦しく感じられてきたのです。『本物の象を見ないで、いったいどんな人生が残されているんだ?』そうなんどもつぶやいたそうなんです。そうなるともういても立ってもいられなくなり、すべての生活を放り出してそんな原野に出発したのでした。このまま象を見ずに暮らしていく無意味さに彼は気付いたのでしょう。彼は象をもとめ原生の草原をさまよい歩きました。この人は、雄大な草原の景色の中、泰然とのし歩く象をそれこそむさぼるように想像し、夢の中にまでもそれを追い求めたのです。」 |
木鳥 建欠
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