第133回
いずれにしても、弟がこんなにも簡単に敵の罠にひっかかってしまったのは、あるいはあまりにも失政のくやしさが大きかったせいなのかもしれません。つまり、小さな人間が自分を大きく見せたいと願うように、みじめな境遇に追われている弟は少しでも早く他人を見下せる場所に戻るために焦り、まわりが何も見えなくなっていたのだと思います。そういう意味では弟はとても幼い人間でした。みえっぱりな人間が人前でころんだときに、その失敗をとりつくろうため余計に滑稽なものになってしまうように、弟も落ちぶれた自分をなかったこととしていっしょうけんめいにその場をとりつくろおうとして足もとをすくわれたのでした。 弟は本のなかで『平等の精神は毒のようなもので、いったん体の中に入れてしまうともう取りのぞくことができない』というようなことを書いています。この考えについては、弟と何度か話しあったことがありました。弟が言うには、この考えに取り付かれてしまうと、他人よりも多く持っているものは持っていることに対して常に罪悪感を感じ、自分を卑屈にしてしまうのだそうです。たとえばお金を持っているものが持っていないものたちに対してうしろめたい気持になったり、地位あるものが必要以上に自分を低く見せようとしたり、といった感じにです。これは弟に言わせると手かせ足かせのようなもので、健全な人間を不健康で病弱なものにしているのだそうです。力を誇示し征服したいという欲求を押さえつけて不自然なやさしさや思いやりなどを無理やりに作りだすことにより、その正直さに欠けるわざとらしさからその人間の内側に病的などす黒いものを湧き立たせ、その人の精神を腐らせるのだそうです(弟はこの世の大半の憐れみという感情は不誠実から生まれていると断言していました)。だから反対に弟は、他人をふみつぶせる思想を普及させるべきだと言い張りました。ふみつぶすことに罪悪感を感じなくてもよい世の中が必要なのだと言っていました。そうすることによって手足のかせをはずされた人間はもっと自由に力強く人生を歩んでいけるのだと。
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第132回
第4章 詩人は本を読み終えると、深くため息をついた。時間はすでに昼前の散歩の時間になっていた。毎朝の日課となっているラジオ番組を聞き終えた施設の住人たちは、昼に近い午前の温かい陽光に満ちた、建物の前に広がる芝生の上へとそれぞれのろのろと散らばっていった。詩人はそれを見つめながらまたため息をついた。そして読後感の疲れを振り払うために両目をごしごしとこすり、掃除婦の書いた手紙の続きを読んだ。 …わたしはこの冊子を拾い上げると、もう弟の方を振り返ることなく小屋まで急いで帰りました。まんまと敵の罠にはまった弟を思うとあわれでもありました。弟は自分で思っていたほどすぐれた人間ではなかったのです。これはもう誰の目にもあきらかなことでした。ただ弟は、人間をさげすむ思想に取り付かれ、自分は大多数の人間をさげすむことのできる選ばれた人間と思い込んでしまったのでしょう。たまたま知事という地位を得たために、たくさんの人間を動かすことのできる地位を得たために、この思想の毒におかされたのでしょう。でも敵の手にたやすく乗ってしまったことでもわかるように、弟は根は善良な平凡な男なのでした。 拾い上げたこの冊子の内容は、海での漂流を余儀なくされたある王の苦難を描いたものです。あちこちに弟の思想がちりばめられています。あちこちに弟の他人に対するさげすみが感じ取られます。この王はある裏切り者のために失政し、漂流に流されてしまうのですが、この境遇に追っ手に追われて逃げかくれている自分を重ね合わせていたのでしょう。この王は執拗なしぶとさでもって裏切り者に対する復讐の機会を狙っているのですが、その執拗さは自分よりも劣っているものに足もとをすくわれたという、この王にとっての耐えがたい屈辱をエネルギーに変えてたもたれています。そしてこれはまさに弟が常に持っていたエネルギーでもありました。弟はそのくやしさをこの本を書くことによってまぎらわせ、想像の世界で憂さを晴らしてみせたかったのでしょう。この本はちょうどこの王が漂流から逃れ、再び陸に立ち上がったところで終わっています。ここから弟はどんな話を想定していたのか、わたしには定かではありません。もしかすると、ここから先は知事の地位に復帰すると信じていた自分の人生で続けるつもりだったのかもしれません。 第131回
どれくらいの月日がながれたのだろうか?王にはもう想像もつかなかった。広い空に陽が昇り沈む単調な日々がここでの生活を無限に感じさせた。変哲のない日々が王の感覚を麻痺させた。そしてある長い雨が続いた夜、バターが老衰で死んだ。最後の日々、バターはもう巣から動き出すこともできず、もの憂げな目で話しかけてくる王を見つめかえしていた。動かなくなったバターを真新しいシーツに包んで最近流れ着いてきた比較的きれいな部屋に安置してやり、栓を抜いていっしょに沈めてやった。そして沈んでいく部屋をながめながら王は思った。わしもこんなふうにいずれここで死んでいくのだろうか?知らぬ間に、数え切れないくらいの日々がすぎていっていた。でもわしはどうすればいいんだ?憎々しげにこの呪わしい渦をにらんだ。たのむバター。なんとかわしをここから出してくれ!バターを入れた部屋が海面から見えなくなると、王は両手を合わせて強く念じた。 王の執念深い祈りが天に通じたのか、その翌日から水平線上にどす黒い雲がもうもうと湧き出し、強風が吹き始めた。しめた!でかしたぞ、バター!王は遠くから近寄る巨大な黒い雲を見ながら叫んだ。夕刻には雨がよこなぐりになり、波は部屋を飲み込むくらいに大きくうねりだした。かたまりあった部屋が騒然とぶつかり合い、壁が砕け破れる音が聞こえてきた。ついに来たか!ついにこの日が来たか!この渦からぬけ出すための絶好の機会が到来したと思った王は、揺れる部屋のなかで寝台にしがみつきながらよろこんだ。しかしこの嵐は王がいままで経験したものと比べものにならないくらい強大なものだった。反動をつけた波は王のいる部屋を持ち上げるだけではなく、巨人の口のように開かれた波の底まで投げ飛ばし、また吹き荒れる風は部屋を波の上でさいころのように転がした。王は床に固定されている寝台にシーツでしっかりと自分をつなぎ、天井の穴から海上に投げ飛ばされないようにしたが、回転する部屋のなかで何度も気を失った。断片的に気を取り戻すたびに、死に物狂いになって寝台にしがみついた。チクショウ!死んでたまるか!もう少しの辛抱だ!もう少しの辛抱だ! 何時間もつづくこの激しさに、しまいには壁は打ち破られ天井は吹き飛び、間断なく波が王におおいかぶさってくるようになった。寒さに震え、寝台に自分をくくりつけた王は、息ができないくらいに波に打たれ、もう自分がどこにいるのかもわからなくなってきた。ただ生き延びることだけを、生き延びて陸にもう一度あがることだけを念じつづけた。 一昼夜つづいてもまだ止む気配をみせない嵐のなかで、寒さと疲労に王は高熱におかされてしまった。王は天井を吹き飛ばされた部屋のなかで、荒れ狂う波にもてあそばれながら悪寒に苦しんだ。悪夢のなかで王は巨人にふみつぶされていた。その巨大な足を払いのけるには、王の存在は矮小すぎた。全力で押し戻してみても、ぴくりとも動かない。やられるがままに王はなす術もなくふみつぶされていた。王はくやして叫び声をあげるしかできなかった。また別の悪夢では、王が三頭のイルカをあやつって陸地に向かって海面を疾走しているとき、突然海がたらいをひっくり返すようにめくりあがって王を投げ飛ばし、光の届かない海の底まで突き落としてしまっていた。王は恐怖の中、自分の力ではどうにもならないものを感じた。進んでも進んでも、王の偉大さや強さをまったく無視して簡単にはじき返してしまう巨大な壁を感じた。チクショウ!チクショウ!王は自分のふがいなさをくやしがった。 次に気づいたとき、王は仰向いてまぶしすぎる太陽の光から逃れようとしていた。しかし体が思うように動いてくれなかった。まるで泥の中に体がとらわれているように、カメのようにゆっくりとしか体が反応しない。まぶしい光をさえぎるために、手のひらを両目の上にかぶせるだけで息切れした。口のなかはかさかさに渇き、空気がうまく通過しない。しかし何か懐かしい音が響いていた。いま聞こえてくる波の音が懐かしく感じられた。何が起こっているんだ?体は疲労の極限にあったが、心は落ち着いていた。どうなっておるんだ?王は不思議だった。波の音がするたびに、仰向けに寝転んだ王の腰のあたりまで波が押し寄せてきていたのだ。背中にあたっているのが木の床でないことに気づくのに、かなりの時間がかかった。それは細かな砂だった。砂の上にいることに気づいた王は、するどい針で刺されたように体を縮めた。ゆっくりと体を起こし、両手で砂をにぎりしめた。慣れてきた目で見えたものは、砂浜の風景だった。そしてそれは王のまだ見たことのない砂浜だった。波打ち際には、いくつかの部屋の残骸が散乱していた。その部屋の住人は生きてここまでたどり着いたのだろうか?ここは約束の地なのだろうか?生きているのはわしだけなのだろうか? 王の新しい復讐がここから始まるのだろうか?王は久しぶりに自分の二本の足で陸の上に立ち上がった…。 第130回
こうして王は陸に近づくことも離れることもなく、無為に同じ場所にとどまるはめになったのであったが、この場所で豊富に獲れる鳥からある希望を見出すことができた。いままで王が捕獲してきた鳥の胃袋には魚しか入っていなかったのだが、ここで捕獲する鳥からはまだ消化されていない昆虫が混ざっていたのである。そこには王にとっても幼少のころからの馴染み深い虫もいた。王は昆虫を摘み上げると、確かに近くに存在している大地の匂いを嗅いだ気がした。この虫が鳥についばまれるまで六本の足で歩いていた懐かしい大地を想像した。王にとってこの事実はたしかに喜びでもあったのだが、同時におそろしい苦しみでもあった。せめて漂流さえしていたら、陸に近づいていける可能性もあるのだがここにいる限りは、陸から離れることはなかったがそこにたどり着くこともなかった。ほとんどの鳥は太陽の沈む方向から飛んできていた。その向うに王の復活を約束する陸があるようだった。「わしはあの方向にすすまなきゃならんのだ。」王は夕刻、天井に座って太陽の沈むのを眺めながらつぶやいた。「どうしてもわしは戻らなきゃならんのだ。あともう少しなんだ。ぜったいに生きて帰るんだ…。」 王はしかし渦にとらわれたままで、いつまでたってもそこから抜け出すことができなかった。ここでは魚も鳥も充分に獲れた。しかし囚人にとって獄中での豊富な食糧より寒くても外の自由を求めるように、王にとってはなぐさめにならなかった。鳥の中から虫を見つけるたびに王の胸は高鳴り、鼻先にぶら下げられた自由に身もだえ、狂おしさが増すのであった。苛立たしさはつのり、夢中になって大地を求めた。はげしく感情が起伏する王の内面とは反対に、王のまわりでは単調な日々が続いた。獲物を獲り、加工するだけの日々が続いた。雨の日は仕事を休んでバターと退屈をしのいだ。イカリを降ろしたように釘付けにされたこの一点からは海と空しか見えなかった。たまにこの平坦な風景に変化が起こった。それはこの渦にまた別の部屋が流れ着くときであった。そんなとき王は部屋の中に隠れ、その流されてきた部屋に住人がまだ生きているかどうか見極めようとした。しかし生存者はひとりとしていなかった。皆与えられたパンだけ食べて、飢え死んでいるようだった。おそらく王から王権を奪ったあの男は、王の失脚後もまだこの刑を行使しつづけているのだろう。生意気なやつめ。王は毒づいた。大きな権力を得て大きな勘違いをしておるのにちがいない。やつにはふさわしくないちからなんだ。人には分相応というもんがある。虫けらには虫けらの人生がふさわしいのだ。だからやつには…。 第129回
朝陽がのぼると王は、慎重に音をたてないようにして部屋から忍び出た。部屋は王の箱をのぞいて五つあったが、そのうち三つはまだ原型をとどめていたが、他の二つは天井が破れ、壁は腐り、部屋の中には何も残っていなかった。そのまま王は足音をたてないようにすぐとなりの部屋の天井に乗り移り、窓から部屋をのぞきこんでみた。しかし中からは目がしみるような異臭が溢れ出しているだけだった。なかには元の顔がわからなくなるくらいガスが充満して膨れ上がった死体が転がっていた。もうひとつの部屋には隅に白骨死体があり、そして最後の部屋にはどういうわけか人がいた形跡もなく、すべてのものが真新しかった。王の予想通り誰もここまで生きてたどり着けていなかった。 王は携帯していた骨を使って天井を破り(板は難なくはがれた)、各部屋の中のものを物色した。しかし異臭を放つ死体のある部屋は、耐えがたいにおいを部屋の外にまで発していたので、床の栓を抜いて部屋を沈めた(中にあった死体は、ガスが充満していたため王の破り入った天井からすり抜け海面にまで浮かび上がってきたが、それは幾日もすると鳥がやってきて肉をついばみ、その日の内にまた沈んでしまった)。白骨死体のあった部屋の中は、その住人の苦悩をあらわしていた。部屋の壁の一面には、漂流中の日数を記すキズが刻まれていたがその数は五十もなく、あとは壁一面におそらく額をぶつけたであろう跡の血痕が滲んでいた。死体は猫に追いつめられたネズミのように、おびえたように隅のほうで自分の両足を両腕で抱え込んでいた。この部屋の住人は、出発時に与えられた食糧以外はなにも獲った形跡はなかった。食糧がなくなる不安と、大海原に漂う孤独さに耐えられなくなったのだろう。部屋の壁の隅には、稚拙な海に浮かぶ帆のついた舟の絵と、大きな山のある陸が描かれてあった。最後の部屋には蒸発した樽の中の水以外、すべてが出発時そのままに(食糧の固いパンも、たらいも)残ってあった。しかしよく見ると小さな窓の縁が壊れてあったので、おそらくこの住人は刑が執行されてまもなく器用にこの窓からすり抜け、海に飛び込み、岸まで泳いで戻ったのだろう。この小さな穴から抜け出したのなら、もしかするとこの受刑人は子供だったのかもしれない。王は何人もの子供もこの漂流の刑に処したことがあったのだ。しかし王のいた国の近海は潮の流れが速いので生きて戻れたかどうかはあやしかった。 王は、何度も漁をするために浸水させ壁の傷みのはげしい元の部屋から、まだ誰も住んだことのない比較的新しいこの部屋に移り住むことにした。そしてここにいるあいだ、元の部屋を漁をするときだけに使うことに決めた。バターを新しい部屋に引っ越しさせると、王はこれからの対策を考えた。半径数キロにわたる渦の真ん中にいるこの状況を考えると、推進力を持たないこの部屋に脱出する可能性は見当たらない。王はいちど豊富にある材料を駆使してオールを作ることを考えてみたが、櫂として耐え得るくらい丈夫な材料がなかった。シーツを帆として張ることも考えたがやはり、帆も帆柱も荒波をこえていくくらい丈夫ではなかった。脱出するめどが立たない王はいら立ち、あらゆる可能性を検討し、イルカを調教して馬車のように部屋を引かせることまで考えた。 第128回
その後幾日も王の部屋はむなしく周回しつづけた。王の予想したとおりその円は時とともに小さくなり、やがてその中心にたどり着くことになるのだろう。 その中心で浮かんでいるものもはっきりと識別することができるようになった。それはむかし王が砂浜から何百と送り出したうちのいくつかの部屋だった。ここは部屋の墓場だったのである。何百のうちのいくつかは大海をさまよっているうちにこの潮に乗り、この渦に巻き込まれたのだろう。そしてそこに王の部屋もゆっくりと近づいていっていたのだ。王はすこし不安になった。まだあそこには生きている人間はいるのだろうか?もし複数いるとなると、王に気づけばどんな目にあわされるかわからない。ここまできて、むかしの受刑者に復讐されるかもしれない!逃げ場はない。やつらにとったら、格好の憂さ晴らしとなるだろう。逃げ場のない刑場に引かれていくように、吸い込まれていく。とっさに武器として使えそうな加工された鳥の骨を探す。でももしかすると長時間にわたる漂流のせいで風貌が変わったので、王を王と気づかないかもしれない。じっさい、先日この部屋に助けを求めにきた男は、王がみずから名乗り出ても王と判別することはできなかったではないか(もちろん、その男は溺れていてそれどころではなく、冷静に王の顔を観察することはできなかったが)。 部屋の内側から息を殺して観察してみたが、どうもあの渦の真ん中に集まっている部屋では人の動く気配がない。少なくとも、だれも天井に上がって、魚を加工している者はいない。まだあの渦の中心にたどり着くには数日かかると思われたが、王の予測はやがて確信に変わっていった。あの部屋には、誰も生きている者はいないだろう。やつらはみんな、この過酷な条件下で生きていく術を見つけられなかったにちがいない。そうだ。よく考えてみれば、やつらにわしがいま行っているような生きていく知恵があるはずがない。どうせやつらは部屋のなかで失望し、わしを呪い、自分の人生を憐れんで何の抵抗もせず死んでいったのだろう。わしには想像できる。やつらはどうせ自分で道を切り開いていく力がなかったのだ。やつらはあてがわれた自分の運命に押しつぶされるしかなかったのだ。ク、ク。 王はその渦の中心に、ある真夜中たどり着いた。王がうつらうつらと眠りかけ油断していたとき、突然部屋に大きな衝撃と音が響いた。バターは羽を広げて騒ぎ出し、王はすぐに飛び起き、武器にするつもりだった骨をつかんで身構えた。暗闇のなかでいつ闖入してくるかわからない外敵に対して耳をそばだてた。部屋の壁と壁がこすれる音と、波が部屋にぶつかる音のあいだになにか不審な音がまぎれていないか、誰かが王の部屋に擦り寄ってくる音がしないかどうか聞き耳をたて続けた。結局だれも入ってこなかったが、王は陽がのぼりあたりが見えるようになるまで油断しなかった。 第127回
翌日目を覚ますと、王はまずその物体を再確認しようとまた天井からのぞいて見た。距離は縮まっていた。それは常にいま王が乗っている潮の右側に見えた。そしてふと王はある奇妙な点に気づいたのだ。昨日最後にその物体を確認したときは夕刻で、自分を中心にして太陽が沈む反対側にその物体が見えていた。だがいま朝の時刻では、それは水平線から昇ってきた朝陽の反対側に見えているのだ。どういうことだろう?王はいろいろと考察してみた。まず考えてみたのは、その物体と王の部屋が夜中のうちにすれちがったということだった。しかし王はいま潮の上にいるのである。その物体に推進力がないかぎり潮を遡ることはできないだろう。そしてこれは数時間後に証明された。なぜならば、数時間後に見てみるとその物体との距離はさらに縮まっていたからである。つまりすれちがったのではなかった。とすればもうあとふたつの考えしか残らなかった。その物体が王の部屋のまわりを旋回しているか、もしくは王の部屋がその物体のまわりを衛星のようにまわっているか。この問題は数日後にははっきりと解決された。王は日がたつにつれて、部屋に差し込んでくる太陽の光の移動が早くなってきているのに気づいたのだった。つまり王の部屋がその物体を中心に弧を描いてまわっていたのだ。しかも物体が近づいてきているということは、まわりながらその円周はすこしづつ小さくなっていき、その中心に向かって回転しているということなのだ。つまり王はどの方向にも進んでいなかったのだ!おそらく速い潮の流れの結果、このあたりで巨大な渦ができたのだろう。そしてこの部屋はその渦に巻き込まれてしまっていたのだ。この事実は王をはげしく落胆させた。渦であろうがこの潮に乗っているあいだは充分に魚が獲れ、食糧に不足することはなかった。しかし王の最大の目標は食糧の確保ではなく、陸を見つけることなのだ。自分で進む力のないこの部屋がいったんこの渦に巻き込まれてしまうと、逃げ出す術はまったくないのだ。行き着く先はおそらくあの渦の真ん中で、なにもかもが約束された陸地にはならないのだ!あの渦の真ん中に集まっている物体がそのよい例で、それらはあの渦につかまってもうどこにも流されることなく、ずっと渦の中心で浮遊しているのだろう。 第126回
「きさまみたいなやつがわしに何を教えることができる?きさまがわしに教えられることは、この世の中にひとつもないんだ!」 「おい、あんた!おれはあんたの敵じゃあない。信じてくれ。おれたちはあの憎い王のおかげでこんな目にあってるんだ。あの王にやられた、ということではおれたちは仲間じゃないか!」 王は何も言わずに男の顔を少しのあいだ見つめてから言った。 「わしがその憎い王さ。」 「何を言ってるんだ?」 「わしがおまえを海の真ん中に放り出したんだ。忘れたか?」 男はまた波のおさまった海面に漂いながら、王が何を言っているのか理解しようとした。 「でも…、王ならこんなとこにいるはずないじゃないか?」 王はそれには答えずまた部屋に戻ろうとした。 「待った!待ってくれ。わかった。じゃあこうしよう。おれをあんたの奴隷にしてくれ!なんでもする。あんたは部屋で寝てるだけでいい。おれがなにもかもすべて調達してきてやるから!」 「そう、それがわしときさまのちがいさ!魂まで売って命乞いする情けないやつめ!きさまなんか生きる価値もない。」 「ちょっと、たのむ。そんな、ひどいじゃないか。放っておかないでくれ!あんたには血も涙もないのか?憐れんでもくれないのか?」 「ああ!」王は大袈裟に手を振って嘆いてみせた。「こいつもあの毒におかされておる。憐れみだと?きさまにか?わしを誰だと思ってるんだ!」 そして王はもう二度と振り返らないで部屋の中に帰っていった。背後から男の最後の叫びが聞こえてくる。 「待ってくれ!お願いだから…。」 男の声はその後も部屋の壁を通して聞こえてきたが、王はもう返事もしなかった。何度か男は壁をたたいていたが、時間とともに弱まっていき、声も遠のいていった。そして王が干した魚を食べ終えたときにはもう風と波の音しか聞こえなかった。 この事件は、王に自信を与えた。自分を、生きていくべき人間と再確認させてくれた。いずれは陸地にたどり着けるような気がした。 その後も王は陸地を探しつづけた。歯がゆかったのが、自分がいまどの方向にどのくらいの速さで流されているのかまったく見当がつかないことだった。もちろんわかったところでどの方向に行けばよいのかわからなかったろうし、わかってもその方向にすすむ術もなかったのだが。しかし王は驚異的なねばりを出して、陸地を探しつづけた。ふつふつと湧いてくる怒りを燃料に、あきらめることをしなかった。毎日最低三度は部屋の外に顔を出し、もしかすると見えているかもしれない陸を探した。そしてある日奇妙なものを見つけた。 そのとき王は、ある速い潮の流れに流されていた。この潮は海面を見るとひと筋の太い帯のように濃い水の色をしており、ひとたびこれに乗ると川を下るように部屋が流され始めた。それによって部屋は不安定に揺れだしたが、この潮の上での漁はいつでもすばらしい大漁にみまわれた。そしてその日たくさんの魚をすくい、バターに残りの魚を与え忙しく作業をしていたとき、手を休めていつものように天井から顔を出して外を見ると遠くでなにかがひとかたまりになって集まっているのが見えた。それはあまりにも遠く識別することはできなかったが、ごつごつといびつな形をしていた。しかしそれは自然界のものではなく、人工的なものであることは離れていてもうかがうことができた。数時間の後もう一度部屋から顔を出してみると、やはりなにか遠くのほうで固まりあっているのが見えた。そしてそれは先ほどよりもはっきりと見えているような気がする。どうやらその方向に向かって近づいているようだった。 第125回
「おい!」王がつづけて話しかけた。「おい、聞こえるか?おまえはどうやってここまで来たんだ?この近くに陸地はあるのか?どうなんだ?」 「たすけてくれ!」男は繰り返した。これだけ言うのがやっとのようだった。 「おい!助けてやる。助けてやるが、どうなんだ?陸地はあるのか、ないのか?」 「たすけて!」男は答えた。「たのむ!たすけてくれ!」 「聞こえるか?」王は大声を出した。「答えろ!聞こえるのか?」 このとき偶然に波がおさまった。このあいだに男はもっと楽に息を吸うことができた。しかし大きな波はまた遠くからこちらに流れてくる。ゆっくりはしていられない。 「聞こえる!」男が答えた。「俺もあんたと同じで、この箱に入れられて流されてきたんだ。でも長年海の上で漂いすぎて壁がくさって、この天気で壊されたんだ。たのむ!なんとか助けてくれないか?」 王はここで大声で笑った。自分がむかしこいつをこの刑に処したのだ。そしてこの男はその張本人に助けを乞うている。王は久しぶりに愉快な気分になった。 「なにがおかしい?笑っていないで、おねがいだから助けてくれないか?」 「おい、きさまはこの近くに陸地があるかどうか知ってるか?」 「知らない。おれもずっと部屋の中にいたんで、自分がどこにいるのか見当もつかなかった。」 「どれくらい海でただよっていたんだ?」 「わからない。数年かもしれないし、一年かもしれない…。」 「じゃあしかたないな。」こう言うと王は乗り出していた体を引こうとした。 「待ってくれ!行かないでくれ!どうか助けてくれ!」 このとき男は後ろから押し寄せてきた波にまた飲まれてしまった。 「たのむ!」はげしく息をつぎながら男は懇願した。「見捨てないでくれ!いままで必死に生き残ってきたんだ。こんなとこで…!」 水面で闘う男の苦しそうな声を聞きながら王が部屋の中に引き返そうとしていると、男が最後の大声をふりしぼった。 「おねがいだ!おれが知っている食糧を得る技術もぜんぶ教えてやるから!いままで習得したものぜんぶあんたに教えるから!」 戻ろうとしかけていた王は、男のこの言葉にすこしいらだったようで、また天井のふちまで戻っていき、男に言った。 第124回
「たすけてくれ…。」 王は自分の耳をうたがった。この海原の真ん中で自分以外の人間の声があるはずがない。ではいま自分の耳が聞いたものはなんだったのか?するとまた壁をたたく音がした。それは濡れた手で濡れた壁をたたく音だ。自分が幻聴を聞いているのでなければもう間違いはない。なぜこんなところに人間が?もしかするともう陸の近くまできているのかもしれない…。小さな花がまだ離れているがたしかに近づいてきている春の到来を予告するように、渡り鳥の第一陣が寒い冬を告げるように、この流されてきた人間はたしかに近寄っている陸地を示しているのかもしれない。砂漠で飢えた人間が小さな手がかりも大きな希望に変えてしまうように、王は心をときめかせた。王は急いで天井の上にのぼっていった。慎重に横ばいになって四方に目をこらしてみたが、そこはやはり見わたす限りの海でしかなかった。いままで見てきたものとまったく同じ海がそこに広がっている。どこにも王の期待した陸地はなかった。そして次に、そこにほんとうに人がいるのか、海の真ん中で遭難している人間がいて、この海原に浮かんでいる部屋にたすけを求めているのかたしかめる必要があった。王が体を乗り出して海面に顔を出してみると、はたしてそこには顔じゅうひげだらけで濡れた長い髪を肩までたらし、懸命に水面から顔を出そうと両手両足をいそがしそうに動かしている男がいた。しかし男の必死の努力によりやっとのことで海面から出した顔は、いともたやすく上からかぶさってくる波に飲み込まれてしまう。飲み込まれると男は体中を震わせ、海面を両手でたたき、またほんの少しのあいだだけ顔を出す。出しているあいだに吸えるだけの空気を吸い込み、また波に飲まれていく。その報われない努力を見ているだけで、傍観者も息苦しくなってくる。たしかに人間はいた。しかし陸地はなかった。王の失望は大きかった。 「何か用か?」王は海面に向かって尋ねた。 「たすけてくれ!」男は刹那的に浮かび上がってくるとき、空気を吸うのを犠牲にして大声を出した。そして叫ぶと同時に海水を飲み込んでしまい、苦しそうに息をついだ。 |
木鳥 建欠
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