「欧州御巡業随行記」
「欧州御巡業随行記」は李王のヨーロッパ外遊に随行した篠田博士により、1928年刊行されました。 李王含める外遊団は、1927年(昭和二年)、横浜より1万トンの旅客蒸気船(箱根丸)に乗って出発し、マラッカ海峡、インド洋、スエズ運河を通り、いくつかの港に寄港しながら、目的地であるフランスのマルセーユには、出発から43日後の同年7月4日に到着しました。 一行はフランス、スイス、イギリス、デンマーク、ドイツ、ポーランド、チェコなどヨーロッパと大きく時計回りに巡って、12月20日に北部イタリアに到着したようです。そしてムッソリーニとは、翌年1928年(昭和三年)1月4日午後五時、李王に随行するという形でローマで面会しました。 ムッソリーニがいわゆる「ローマ進軍」起こして当時の政権を倒したのが1922年で、篠田博士が会った時期にはすでに首相となって7年近く経っています。 Wikipediaの「ムッソリーニ」を引用すると(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B)、独裁宣言を出したのが1925年頃らしく、篠田博士が訪問した同年9月に議会は廃止されたようです。 経済的には1920年代後半から成長が止まり、物価が上昇し通貨安に悩んでいました。 政治的にはイタリア国民に対して強権的、そして経済的には不安定な時期に訪問していたと言えます。 そして意外であったのは、この時のムッソリーニはとても紳士的であったようです。 本の中で博士から「怪傑ムッソリーニ」と表現された当時のイタリア首相は、部屋の入口まで一行を迎えでて、随行した人全ての人と握手したそうです。そして李王から二度着席を勧められたにも関わらず、会談中ずっと起立したまま応答して敬意を表していたと書かれてありました。 会談後は再び部屋の入口まで見送り、一人ずつ握手して別れたようです。篠田博士はその後感想として「奇傑ムツソリーニ氏は、眞に伊太利の救世主と謂ふべく(p.300)」とその人柄を誉めています。 さらに、ロシアの共産主義の影響によってイタリア国内が混乱していた時に、奮然立ち上がり、ファシストを組織し、敢然と異分子を退治して、国内に平和をもたらした「快男子」と持ち上げられていました。 体は大きく、少々粗暴な感じがあるが、緊張した面持ちと鋭い眼光は「大那翁(ナポレオン)」のようだとも形容されていました(ただ様々な苦労と経歴を重ねてきた割には、握手した手が柔らかく、意外だったとも書かれてありました)。 以上が篠田博士のムツソリーニ評となります。370ページほどある本に2ページほどしか記載されていません。紳士的で、着席せずに対応し、手が柔らかかったというくらいしか内容はないですが、当時の生のムッソリーニと会ったということで言うと貴重な記録と言えると思います。 そしてこれはKelenがその本で描いたムッソリーニとは大きなへだたりがあります。もちろんこの本は1920年代後半に書かれたものなので、篠田博士としても1960年代に書いたKelenと同じ立場で対象の人物を評価するのはとても難しいことだと思われます。
0 Comments
「Peace in Their Times」
この本は1964年に刊行されています。 このKelenというハンガリー出身の風刺画家は、1920年代から30年代にかけて3度ムッソリーニと会っています。もちろん個人としてではなく、ジャーナリストとしての取材対象としてで、面会というよりもムッソリーニの現れる場所にいた、という感じです。 一度目は1923年、スイスのローザンヌでした。この時はムッソリーニもまだ首相になったばかりの時期になります。 二度目は1925年、スイスのロカルノ。そして三度目は1935年、イタリアのストレーザでした。 それぞれの場所には著者以外にも取材陣がいたようですが、共通しているのは三度ともムッソリーニは記者たちを敬遠していたようですし、記者たちもこのイタリアの首相を好もしく思っていなかったことです。 二度目のロカルノでは、ある記者がムッソリーニに対して無礼であったということで、有名な黒シャツ隊から頬を叩かれるという事件が、著者の目の前で起こったようです。 いずれの場合もムッソリーニは、(著者によると)目をギョロつかせ、顎を持ち上げて悠然と記者団の前を通り過ぎたようです。 著者はムッソリーニのこの傲岸不遜な態度を、梅毒による症状と断定しています(p.292)。著者は、スイスの医者から、ムッソリーニがスイスに住んでいた若い頃、梅毒にかかって治療を受けていたという話しを聞いたようです。 ムッソリーニがイタリアで政権を取った時、当時のカルテが紛失したということでしたが、どこまで信ぴょう性のある話か分かりません。 梅毒患者の特徴として、大言壮語、突発的な感情の発露、前言撤回などがあるようですが、ムッソリーニの不可解な政治行動はこれによるものだと著者は(面白おかしくですが)主張しています。 彼の文章を読んで思ったのは、彼が描くムッソリーニは何となくですが僕の持っていたムッソリーニの印象と同じものでした。強大な権力を持ちながら、ヒットラーに振り回される何となくおっちょこちょいな政治家という印象そのものでした。 とにかくジャーナリストからは嫌われていたようで、1925年のロカルノでは、ムッソリーニが記者会見を開くと言っても、ほとんどの記者たちは出席をボイコットしたようです(p.156)。 以上を踏まえた上で、次は篠田博士によるムッソリーニとの面談について書こうと思います。 ムッソリーニと会った人たち
最近読んだ二冊の本の著者が、偶然第二次大戦中のイタリア独裁者であるムッソリーニと会っていたという共通点がありました。そしてそれぞれの本でそれぞれのムッソリーニについての印象が書かれていました。 これらの本は、ムッソリーニと会うことを目的とはしておらず、二人の著者も、ムッソリーニを主題においていません。 ひとつはジャーナリストとしてムッソリーニと会い、もう一つは旅の途中の表敬訪問として会っていました。 ジャーナリズムの一環として会った著者は、Emery Kelenというハンガリー出身の風刺画家です。彼の自叙伝「Peace in Their Time」(1963年)という本に、ムッソリーニと会った思い出が書かれてあります。この本は著者の20世紀初頭の幼年期から、第一次大戦の従軍経験を経て、第二次大戦が終わるまでの体験が書かれています。 その間、ムッソリーニ含め、ヒットラーやガンジーなど当時の多くの政治家と会った経験談が書かれています。そこには1933年の国際連盟を脱退した時の日本外交団も含まれていて、なかなか興味深い本となっています。 もう一つの本は、篠田治策法学博士によって書かれた「欧州御巡業随行記」(1928年)という本です。これは篠田博士が当時、李王職次官という立場で、1927年から1928年まで李垠(リギン-大韓帝国最後の皇太子)がヨーロッパを外遊した時、付き従った記録が記されてあります。 この二つの本の共通点は、ただムッソリーニと会ったことがあるということだけで、それ以外はまったく性格の異なる内容となっています。 Kelenの本は第二次大戦が終わり、ムッソリーニの評価が定まってから書かれたものであるので批判的に書かれているのに対し、篠田博士の本はムッソリーニがイタリアの最高権力についてから5年後という時期に会っているせいか、どちらかというと好意的に評価されています。 篠田博士の評価の仕方も、またムッソリーニのこの日本から来た外遊団に対するふるまい方も政治的な背景があるので、一概には言えないかもしれませんが、ムッソリーニの性格を表していて興味深いです。 まずは風刺画家であるKelenによるムッソリーニの印象について書きたいと思います。 |
木鳥 建欠
|