第209回
雨雲は両翼を伸ばした巨大な鳥のように、施設を包み込むようにして広がってきていた。そしてそれにともなう黒い影と一緒に、湿った冷たい風が建物前を散歩している住人たちに向かって吹いてきた。冷たい風に恐怖をあおられた聴衆は、新たな不安がわきおこってきた。普段、施設に住む住人に死の予兆を伝える雨雲は、太陽の沈みかけた夕刻、もしくは夜中にしかなかったことで、昼前に来ることは極めて異例のできごとだったのだ。これをどう解釈すべきなのか?うそつきも含め、すべての聴衆がとっさにこのことについて考えた。今現在、いちばん死に近いところにいるのは、無謀にも木の上から飛び降りようとしている、うそつきであることは明白であった。するとこの死を告げに来た雨雲は、うそつきのことを指しているのだろうか?もしそうであるのなら、これから飛び降りようとしているうそつきに、奇跡は起こらない、ということになる。この考えは、木の前に集まった住人すべての頭に浮かんだ。そしてそれは、今日死ぬ事になっているにもかかわらず、駅長、そしてその事実を知っている坊主、うそつきにも同じように浮かんだのであった。そこに集まった人々は皆、うそつきが木の上から飛び降りると、死に至る事故になる、と確信した。 するとそれまで飛び降りるための心の準備をして苦渋の表情を浮かべていたうそつきの顔に、雨雲があらわれてから、ある重大な直感がひらめいたかのような顔つきがあらわれた。それは睡眠中ずっとうなされつづけた悪夢から目を覚まし、やっとのことで解放されたかのような、晴れやかな表情であった。 「神をためしてはだめなんだ!」うそつきは突然叫びだした。「そうなんだ、神はためしちゃだめなんだ!」 うそつきのこの突然の告白は、はじめ聴衆には理解されなかった。しかし晴れやかなうそつきの顔にもう飛び降りる意思がないことを見てとると、聴衆は狼狽し、そして火がついたように怒りだした。 「なんだって?これはいったいどういうことだ?」小心な老人がうろたえるようにして叫んだ。 「何を都合のいいこと言ってるんだ!あの雨雲を見てから怖気づいて飛び降りるのがこわくなったんだろ!」無責任な老人も、うそつきの軽薄さに罵声を浴びせた。 「あいつが飛び降りない、ということは、誰か別のやつが死ぬことになるんだぞ。そんな勝手なことをさせるもんか。だいいちあの雨雲はあいつが呼び出したんだからな。あいつを何とかあそこから飛び降りさせなくちゃいけないぞ!」慎重な老人が、ほかの聴衆をあおるように叫んだ。
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木鳥 建欠
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