第23回
「じゃあ人間ってどうやって発展してきたのかねえ?」眼鏡の老婆が、独り言のように訊ねた。 「おおかたわからないことをわからないと正直に言った、偉いお人だろう。」 「偉い人にわからない事なんてあるのかい?」 「知らないよそんなこと。偉い人に聞いてこいよ。」 「きっと『知らない』って答えられるだろうねえ。」そばにいた者がくすくす笑いながら言った。 「その前に人間って発展してきたのかな?」 「知るもんか、そんなこと。」 その時娯楽室の扉が開いた。そこにはうそつきが不服そうに立っていた。すでに室内着に着替えており、糊のきいた袖からは細く筋張った腕がカメの首のように突き出ていた。皆は話をいったん止めて、視線をいっせいにうそつきの方に向けた。見られている方はうつむきながら、誰にも聞こえないくらいの声でぶつぶつとつぶやいている。背後には帽子が立っていた。帽子はぞんざいにうそつきを部屋に押し入れると、はき捨てるように言い添えた。 「仲良くしてもらうんだよ。」 そして大きな音をたてて扉を閉めた。残されたうそつきはまだ動かずに立っていた。誰も話しかけるものはいなかった。ラジオでは、相談員が言語の本質について語っていた。いわく、言語とは一般的に考えられているように、一方から一方へと、個の中に隠された意思を相手に伝達するための道具ではなく、もっと行動や環境と密着した生活の習慣の一部である。つまり言葉とは、洗練された便利な道具などではなく、例えるなら体から染み出てくる垢のようなものである。体のないところで垢は存在しえない。例えば、生活や環境から切り離された単語─『りんご』または『いす』─は言語的に何の役割も持たない。生活の中で使われて初めて役に立つのである、云々。 うそつきは視線を避けるようにしながら、皆から少し離れた所にゆっくりと腰をおろした。
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第22回
坊主は駅長と並んで座ると、近くに小さな体を縮めるようにして正座している老婆に、何があったのか訊ねた。老婆は、小さな顔にはめた大きな眼鏡を鼻に掛けなおしながら答えた。いわく、ある少年がこのラジオ番組に、学校でわかっていないのにわかっている振りをしてしまう、という相談をしてきた。この少年は今まで、理解していないということが恥ずかしくて言えず、いつも理解しているような態度をとってきたが、内心はいつ暴かれてしまうか、とびくびくしてきたらしい。幾度となく少年自身、正直になろうと淡い志しを立ててみるのだが、クラスの大半が当然のごとく理解しているのをまのあたりにする度に、怖気づいて彼の決心は脆くも崩れてしまうのだった。そして少年はいつまでたってもウサギのごとく、小心に虚勢を張ってしまうらしい。これに対し番組の相談員は、この消極的態度のいかに不毛であるかを切々と説いた。いわく、人類の発展は、ひとえにこのわからないということに刺激された飽くなき探究心のおかげで保たれてきたのである。探究心は新しい発見へと導き、さらにその発見が礎となってまた新たな探求へと人類を駆り立てるのである。倦むことなく継続されてきた、人類の長い歴史における探求と発見によってあらゆる困難を克服し、いまある高度な文明にたどり着けたわけである。つまりこのすべての発展の根幹にあるものこそ、この不可解なものに対する謙虚な態度なのであって、これを否定することはすなわち人類の発展の動機を捨てるに等しい。祖先が築いてきたこの大伽藍の恩恵に浴している我々は、さらに高い文明に向かうための第一歩となるべき『わからないということを認識する素直な心』を捨てるべきではない。我々に定められた重大な義務を前にして恥じている隙は一寸もない、云々。 この相談員による返答に気圧された少年は、相談員の「わかったか?」という問いに対し、「わかった」とだけ答え、負け犬が逃げるように受話器を置いたらしい。 「でもねえ、」この大きな眼鏡を掛けた小さな老婆は、自分の孫をかばうような口調で言った。「理屈ではわかっても、わからないと言うのはやっぱり恥ずかしいことだよねえ。」 番組ではすでに次の質問に移っており、そこでは幼い女の子が、ゴリラは人間と喋ることができるのかどうか訊ねていた。彼女は、ある閑散とした動物園に行ったとき、檻の中でゴリラと飼育係がなにやら親しげに喋っていたのを見たのだという。そこでゴリラは気落ちしている飼育係の肩をなぐさめるようにたたいていたらしい。 「でも恥ずかしがってばかりいたって、この先どうにもならないよ。」瓜実顔の老婆が、眼鏡を掛けた老婆の言葉尻をつかんで言った。 「しつこいババアだな。別にいいじゃねえか、恥かいて生きていったって。」白髪の男は面倒そうにつぶやいた。 「あたしはこの子のために言ってんだよ。ラジオででも言ってただろ、人類の発展のために、わからないことはわからないと認められる態度が必要だって。」 「人類の発展なんて、誰か別のやつがやってくれるさ。」 「へ、へ。むかしいたある偉い坊さんに言わせると、人間のほとんどは根っからの泥棒か嘘つきらしいですよ。」坊主が横から話しに入っていった。「あんまり期待しても無駄かと思うけどね。」 第21回
うそつきの足は帽子の速度についていく事ができず、引きずられるようにあてがわれた自分の部屋へと向かって行った。駅長と坊主は、二人が側を通り抜けるのを黙って見送った。蛍光灯の灯りの中、帽子はうそつきを自分の腕に抱えるようにし、相手に休む閑をあたえないように歩いて行った。そしてうそつきは引きずられながら、始終なにやら呟いている。 「めんどうなのが向かいに越してきたな。」坊主は言った。「あれじゃあ狐の話をしてやっても無駄のようだ。ひ。ひ。おそらく理解できんだろうし、できたってどうしようもない。」 駅長と坊主は、帽子とうそつきが部屋の中へと入って行くのを確認してからまた歩き出した。二人とも手すりを頼りに、ゆっくりと進んでいく。通り過ぎた玄関では、太陽の音と川の匂いを再現した音楽が、聴くものをなだめるように流れている。そして駅長は、あの呪われた部屋に新しい住人を迎えるたびに感じることを、今回も感じていた。それはいつまでたっても底に着かない不安な落下の感覚と似ていた。 二人が娯楽室に到着すると、そこにはすでに十人くらいの住人が集まっていた。部屋の二隅に設置されたスピーカーに挟まれるようにして、皆それぞれにかたまって床に座している。部屋は建物で一番日当たりがよく、大きな窓からはたくさんの陽光が注がれていた。窓は、まだ温まりきっていない朝の空気を避けるために閉じられていた。そのせいで部屋の中は、熟れすぎた果物のすえた匂いが充満している。その中で、かたまり合って座っていた幾人かが、スピーカーの声を遮るようになにか話し合っていた。 「だいたいわからないって事は、そんなに恥ずかしいことなのかねえ。」瓜のように長い顔をした老婆が、眉間にしわを寄せながら言った。 「そりゃあ恥ずかしいんだろ。恥ずかしいからこそ悩んでるんだよ。」横で股間をかいていた白髪の痩せた男が答えた。 「けどわからないことなんてあって当然じゃないか。」 「あんたみたいに恥知らずなら、どうってことないかもしれないけどね。」白髪の男はにやけながら答えた。 くぐもった、忍び笑いがあたりに起こった。瓜実顔の女はいっそう眉間にたくさんのしわを寄せていきり立った。 「あんたみたいに人前で陰毛をかきむしってる男に恥知らずだなんて言われたかないね。」 第20回
帽子は黙って報告を受け書類を受け取ると、そのまま玄関の奥にある部屋に入っていった。付添い人たちは左右からうそつきの肩に励ますように手をのせると、互いにいたずらを隠すような目配せをし合って、外へと出て行った。うそつきが疲れたようにうつむいていると、廊下の端から頭の禿げ上がった、鼻の横にいぼのある男が、距離を保ちながら思い切って声をかけた。 「おい…、おい!」 下を向いたまま返事をしないうそつきを見ると、いぼのある男は仲間と顔をあわせて、怪訝そうな表情を見せた。そしてもう一度呼びかけてみた。 「おい、そこの!聞こえねえのかあ?あんただよお。おおい!」 この問いかけにうそつきは、あごを引き、上目使いに男の方を見ると、体ごと向けられた視線から逃れるようにそむけた。そして向うを向きながら、ぶつぶつと途切れ途切れになにやら呟いているのが聞こえてきた。この奇怪な行動を目の当たりにした男は、また仲間の方を振り返って、度外れの滑稽に遭遇した者のような驚きを見せて、自分の人差し指をくるくるとこめかみの辺りでまわしてみせた。そしてまた懲りずに話し掛けた。 「おおい、あんたあ。あんたあどろぼうって本当か?」 しかし返事として聞こえてくるのは、切れ切れの意味を解さぬ呟きだけだった。やがて帽子が奥の部屋から出てきて、うそつきの腕を乱暴にとった。 「あんたの部屋はこっちだよ。」帽子は、駅長と坊主が歩いてきた廊下の方を指差した。「足もと気をつけて。」 「…本当さ。盗んでやしない。」うそつきは呟くようにしわがれた声を押し出した。「あれは向うがくれたんだ。盗みじゃあない。」 帽子はかまわずうそつきの腕を引っ張って歩き出した。 「本当なんだ。向うがくれたんだ。」 第19回
二人は、娯楽室へラジオ番組を聴くため、部屋を出た。この建物で行われる午前中のスケジュールのひとつだった。大半の建物の住人が娯楽室に集まり、寄り添いながらラジオ番組を聴く。しかしこれは集まるための名目であって、番組を聴くのを目的としてはいなかった。一人になるのを極端に恐れたここの住人は、お互いに集まれる口実を作りたがった。住人達は孤独を爬虫類のように恐れていた。一人でいると世界中から見放されたような気になってしまうが、話し相手がいると気を紛らすことができるからだった。だから毎日毎時間、就寝の時間まで、一人でいないでいられるようなスケジュールを作った。一日を分割して通過点を作り、それをひとつずつこなしていくと、最終ゴールの就寝までいつも誰かと過ごせるよう工夫されていた。こうして動けなくなるか、死ぬまでの日々をだましだまし過ごしていたのだった。 かといって、番組を全く無視していたわけでもなかった。住人には番組の内容はそれなりに刺激的だった。これは子供の相談を受ける番組で、子供の視点から見た世の中で、疑問に思ったことなどを相談する番組だった。もちろん子供の疑問を解くのが目的にあったわけではなく、その子供の無邪気な疑問を楽しむのが目的であった。酸いも甘いも味わい、人生の裏も表も見てきたここの住人達は、子供達の質問を聞いて干からびた魂を潤していた。 駅長と坊主が娯楽室に向かう途中、玄関で今到着したばかりの、黒いコートの男を見かけた。廊下の陰からは、新しく入ってきた男を観察するために、幾人かが恥ずかしそうに物陰から男を窺っていた。 「あの部屋だ。こないだ空いたあの部屋にさっそく入ったんだ。」ある男が言った。 「あの部屋は回転がはやいからなあ。」別の男が皮肉げに言った。 「きっとあの男ももうすぐにちがいないよ。」歯の抜けた女が言った。 「奴の顔を見りゃわかるさ。」鼻の横にいぼがある男が言った。「もう半分行きかかってるじゃあないか。」 玄関では帽子が男の引渡しを、付き添いの者達から受けていた。帽子は小さな目をぱちぱちさせながら、付添い人が交互に行う報告を受けていた。 「年齢不詳。」付き添いの一人が言った。 「住所不定。」別の付き添いが言った。 「名前はうそつき。」 「性格はいたって従順。」 「しかしやや盗癖の難あり。」 「老衰による内臓の機能低下以外はいたって健康。」 「前歯と奥歯の損失。」 「歯に強い圧力を加える食糧は不可。」 「やや歩行に難あり。」 「右足の裏に魚の目あり。」 「左わき下にどんぐり大の肉腫あり。」 「視力は劣悪。」 「しかし眼鏡不携帯。」 「右目は過去に強い打撃を受け、涙腺を損傷。」 「本人いわく、右目からは涙が出ないそうです。」 「ひ、ひ、ひ。」 「それから…。」 「睡眠時に薬服用。」 「糞尿については薬の必要なし。」 「以上。」 「以上。」 第18回
「『老いの本質とは、』」駅長が言った。「『諦念七〇パーセント、希望三〇パーセントの危うい心の均衡にある。』─影が昨日言ってた。」 「どういう意味だ?」 「知らない。」 「難しいことを言うやつだな。」 「諦めちゃいけないし、希望も持っちゃいけないらしい。」 「誰が?」 「知らない。」 「駅長さん、鳥になって大空を飛ぶのと、魚になって大海原を泳ぐのとどっちが気持ちいいかな?」 「けど、飛べないし泳げないから…。」 「じゃあ飛べて泳げたら?」 「鯨がいいな。」 「でも海は淋しくないか?やっぱり空かな、どっちかというと。それに確率的に鯨は難しいな。鳥ならいっぱいいるけどね。」 坊主は窓の外に顔を向けた。 「空はまぶしすぎる気がする。」 「輪廻があるとするだろう?じゃあ確率的に鯨は難しいよ。数百万頭くらいいだろ?鳥ならまだ何とかなりそうだ。でも人間は何十億もいるらしいからね。」 坊主は困った顔をして駅長を見た。駅長はなるほど、と答えた。 第17回
以来この部屋から聞こえてくる話し声にはいつも狐の鳴き声が混ざっており、その住人が死ぬときには決まって狐の匂いが漂っている。駅長自身、この部屋の住人が変わるのを五回見届けたが、そのつど斜め向かいの部屋から禽獣独特の胸につかえる匂いを嗅いだ。さらに駅長は、前回の住人が死ぬ直前に、「窓から毎日のように狐が訪ねて来るのが見える」と訴えていたということを、向かいに住んでいる坊主から聞いたこともあった。 その部屋に、今歩いている黒いコートの男は向かっている。コートの男はよほど弱っているらしく、なかなか建物にたどり着かない。両側の付き添いがしきりに励ましている。しかしとうとう男はしゃがみこんでしまった。だが、付き添いのもの達も無理やり先を進もうとはせず、おなじように座り込んで気持良さそうに陽光を浴び始めた。確かに気負いこむにはやわらかすぎる天気だった。男は自由になった両腕をほぐすようにゆっくりと動かし、あたりにある芝生を撫で始めた。露はまだ乾いていない。緑の芝生がところどころ陽光に小さく反射する。三人とも濡れるのも気にしていない。男は濡れた手を顔にごしごしと押し付けた。 その時部屋のドアが開き、坊主が丸い頭をつるつると撫でながら入ってきた。動作が緩慢なのでからくり人形のように見える。何か見えるか、と訊ねてきたので、駅長は新しい入居者の到来を告げた。 「そういえば、向かいがまだ空いていたな。」 坊主は言いながら駅長の横に立ち、新しい入居者を探した。 「あれは何をしてるんだ?」 座っている男を見つけた坊主は、不思議そうな顔をして訊ねた。男はまだ座りながら顔をごしごしやっている。駅長がわからんと答えると、坊主はまた熱心に男を観察しだした。男は顔から手を放すとまた芝生を撫で、撫でるとまた顔をこすりだす。顔でも洗ってるつもりなのかしら、と坊主が言うと、両側の付き添いがまた立ち上がり、男を立たせ再び歩き出した。 「なんだあれは?自分で歩けんのかな?」 おそらくそうだろう、と駅長が答えると、坊主は気の毒そうな顔をした。男はしばらく歩むとまた立ち止まる。付き添い達は両側で励ます。男は寄り添うように歩き出す。両足は棒のように柔軟性に欠けている。 「あれじゃあ狐にやられる前に、くたばりそうだな。」 坊主はしわの多い額にさらにしわを増やして、困ったといわんばかりに頭を撫でた。まるで楽しみにしていた見世物を見損なったような風だった。 「もっとも、もうすでに狐にやられてるとも考えられるがね。」 坊主は皮肉げに言った。駅長はなるほど、と答えた。三人連れはようやく建物にたどり着こうとしている。黒いコートの男は、今度は建物を眺めるために立ち止まっている。あごを上げ、口を半ば開けながら圧倒されたようにながめている。髪は白く、頬はこけている。そして両側の付き添いに何か話し掛ける。付き添い人たちは、お互いに目配せしあって秘密めかしく笑っている。男は気にせずに話しつづける。 第16回
ふと、遠くに人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。三人ほどが横に並んでゆっくりと歩いている。真ん中の人間は、地面に擦れるくらいの長く黒いコートを着ている。両側の人間は、黒コートの両わきを支えるようにして歩いている。三人は途中、何度も立ち止まっては空を仰ぐ。十歩と歩きつづけることはできない。止まるつど、両側の人間は黒コートに何か話し掛ける。おそらくあたらしい入居者が来たのだろう。そして駅長は、三日ほど前に駅長の部屋の斜め向かい─坊主の部屋の向かい─が空いたことを思い出した。 この部屋はどういうわけか住人の回転がはやく、皆からこの部屋に入ることも触れることも避けられるほど嫌われていた。多いときには、年に三回もその部屋の住人が代わることがある。長くても、一年と持たなかった。そしていつも滞りなく、新しい住人がどこかから連れてこられ補充される。まるでこの部屋の未来の住人は、一列に並んで死ぬために入居するのをどこかで待っているかのような印象を与えた。 皆はこの部屋は、このあたりにたくさん棲息する狐に呪われていると噂しあっていた。むかしある狐が女に化け、この部屋の住人の世話をしていたらしい。その姿は細く、敏捷さと狡猾さをうかがわせるものがあり、さらに体からは獣の匂いを発していたという。当時この部屋に住んでいた男はそれとは知らずに、この人間に化けた狐にその身の世話をまかせていた。といって、特別な事をさせていたわけでもなかった。駅長の部屋に来る帽子と一緒で、着替えの世話をせたり、散歩についたり、入浴の手伝いなどの最低限なものである。しかしこの部屋の周りの住人は、女の不気味さに気付き始めていた。まず匂いがおかしいのと、壁越しに聞こえてくる女の声が、かぼそい獣の鳴き声に聞こえたからであった。そしていつも日暮れ前には、急ぐようにどこかに消えてしまう。気味悪がった住人達は、男に女の怪しいことを告げたが、男は別に頓着する様子もない。意を決した住人達はある日、女の背中に糸を附け、その糸をたどって女がどこから来るものか突き止めようとした。夕暮れ、急いで帰った女の後を、糸を手繰りながら住人達がつけて行くと、はたして糸は建物の裏の森の中に入っていく。こわごわ辿って行くと、あたりは赤い夕陽も厚い葉で遮られていて薄暗い。しばらく進んでいくと、糸はある地面に掘られた小さな穴につながっていた。物陰からかくれて見ていると、その穴にはたくさんの狐が出入りしている。皆はあの女の正体の狐だったことをつきとめ、大急ぎで建物まで帰って行った。そして住人達は、この薄気味悪い狐を退治することに決め、翌日またこの巣穴まで戻って来ると、穴に油を注いで燃やしてしまった。以後女は姿を見せなくなったが、狐が来なくなった部屋の男はまもなく、枯れるように死んでいった。そしてその部屋には、狐の匂いが漂っていたという。 第15回
駅長はいまいち得心がいかなかった。老衰が悟りの境地、という考えがどうも上手く頭の中で溶けてくれない。とげのある岩のようになじんでくれない。悟りというものが、そんなに簡単に会得できるものとは考えてもみなかった。しかし悟りを開いている、と曲がりなりにも坊主に言われると、悪い気がしないでもない。不思議と背筋が伸び、言動が尊大になってくるように思われる。なるほどこれが無我の境地か、と思うと何となくありがたい。煩悩を絶ったのなら、人生残りの三日間することがないのもうなずける。何かすることが見つからないのじゃなくて、悟りを開いたものはすべからくすることがないのである。そして四日後に、仏陀のとなりで蓮の葉の上に座り、蓮の花の開く音を聞きながら瞑想している自分を思い浮かべ、ばかばかしくなって止めた。だいいち、自分自身が悟りを開いているのなら、この建物にいる人間大半は悟っていることになる。確かにここの人間は羊のようにおとなしいが、平常心を保っておとなしくしているのではなく、重い荷物を運ばされた奴隷のように、心身ともに疲れきっているだけなのだ。後光が射すようなありがたさは微塵も見られない。むしろ沈鬱な陰を彼らは背負っている。 駅長は食事もそこそこにして席を立った。最近は味覚と一緒に満腹感もなくなってしまっていた。詰めれば詰めるだけ入る。いちど駅長は腹が異様に膨れるまで知らずに食べつづけたことがあった。反対に空腹感もない。だから駅長には、食事の行為自体が無駄に思えてきていた。食べても食べなくとも満足もないし不満もない。毎回の食事も儀式的に摂っているだけで、少しだけ食べるとすぐに席を立ってしまう。 駅長は坊主に軽くあいさつをして、食堂を出た。坊主はとなりに座る老婆に、あの世の風景や匂いについて熱心に話し込んでいた。坊主いわく、あの世には、無限の空間に雲と霞しかなく、蓮の匂いがうっすらと漂うだけらしい。 駅長は部屋に戻ると、することもなく、窓の外を眺めた。昨夜咲いた木蓮の花は穏やかに開いている。隙間だらけの枝をとおして見ると、透けて見える薄い雲が遠くにかかっている。無駄な希望を起こすような爽やかな朝の空が、駅長を悲しくさせた。 第14回
駅長は、坊主に昨夜あった話を聞いてもらおうと思った。そして見知らぬ影がやって来て、三日後の寿命を宣告していったことだけを簡単に伝えた。 「それで、」坊主は興味深げに尋ねてきた。「その影は、どんな格好をしていた?」 駅長は、影は文字通り影で何も見えなかった、ただ大きなマントを頭から被っていて、白い両手に杖を持っていたことなどを話した。そしてその杖をつくと、突然嵐が起こったり止んだり、物が自在に動き出したりする、と付け加えた。坊主はいつになく神妙に聞いている。駅長が、昨夜突然嵐が吹いたのを聞いたか、と訊ねると坊主は難しい顔をして頭を撫でながら「知らん」とだけ答えた。 「それでそいつは確かにまた影の中に帰って行ったのか?」 駅長はうなずいた。 「ほかに何を言っていた?」 年寄りについて何か言っていたような気がするが、おおかた忘れてしまった、と駅長は答えた。 「で、次はいつ来るんだ?」 駅長は、おそらく三日後だろう、と答えた。坊主はやっと堅苦しい顔をほどいてにやりと笑った。 「人の寿命がわかるなんて、やっぱりあの世からの使いなんだろうな。ということは、あの世というのは存在するということじゃないか。ひ、ひ。これで頭を丸めた甲斐もあったというもんだ。」坊主は両手を揉み合せた。「こっちじゃあさんざんな目にあったんでね。ひとつ次の世に期待させてもらおうかな。ところで駅長さん、あんたあと三日の命なんだろう?もう覚悟みたいなのはできたのかい?こんな世の中とお別れするんだ。まさか名残惜しいわけじゃあないだろう?」 駅長は、名残惜しくしないために残された三日間を有意義に過ごそうと思ったが、どうもやりたいこともないので困っていた、と正直に答えた。そして、おそらくこのままいつも通りの時間を過ごして、三日間を暮らすのだろう、と付け加え、それとも何かした方がよいだろうか、と訊ねた。坊主は腕を組み、なにやら唸り声をあげる。 「そうだ、今日はひとつありがたい説話でもといてやろう。むかしお釈迦さんは天上界というところに住んでたらしい。しかしある日わざわざ人間界に降りる事を決心した。なぜだかわかるか?人間界で揉まれて魂を鍛えるためさ。つまりお釈迦さんも、この研磨機みたいな人間界は、魂を磨くためには格好の場所だと思ったんだろう。そして女人の誘惑を断ち、地位や名誉を拒み、脅迫にも屈しなかったとき悟りを開かれたそうだ。いいか、俺達も長い間生きてきて、世間で魂が揉みに揉まれてきたん。肉体的にはもう、圧搾機を通ってきたみたいにしぼりかすみたいになっちまった。若い頃のような脂ぎった欲望はもう何にも残ってない。駅長さん、あんたの言った通りもう何にもやりたいこともない。ただ棺桶に入るまで阿呆みたいに飯を食らって寝るだけだ。そして残っているのは死だけだ。つまりこの無欲の状態が悟りの境地なんだよ。俺達もやっと煩悩を断ち切れたわけだ。だから駅長さん、あんたは悠々とあの世に行く準備でもしていりゃいいんだ。」 |
木鳥 建欠
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