第204回
二人はのそりのそりといつもの散歩道を歩いていた。太陽はやさしくその陽光をふりそそぎ、温かい風が触れるものすべてをなでるように吹き抜けていった。いつもと同じように、建物の前の広場では住人がいくつかのグループを作ってのんびりと動きそして話し合っていた。老犬は今日も老人に投げられた枝切れをうらめしそうに追いかけて舌を出しているし、家畜のようにただよう老人も同じ場所で同じ会話にいそしんでいる。 「もう最後のものばかりなんだな。ここの散歩ももう二度と経験しないんだな。」唐突に坊主が感心しながらつぶやいた。 駅長は、自分が死ぬまでにもう時間が残りすくなくなってきてはいるが、実はまだまだいろんなことをやり遂げるだけの時間が自分には残されているのだ、といった確信に似た感覚を持っていたのだが、これを坊主にうまく説明する自信がなかったので、何も言わず坊主の横を黙って歩き続けた。ラジオを聴いていたときも、駅長はこの考えを実感していた。駅長にはまだいろんな事をする時間が残されているような気がしていたのだった。死ぬまでに歩ける距離、死ぬまでにまばたきする回数、そして死ぬまでに吸い込む空気の量などを考えると、自分にはまだ充分な時間が残されているような気がしてくるのだった。問題はこの膨大とも思える時間を、どのようにして費やすべきか、ということだった。しかし考えるだけで何も妙案は浮かばず、結局時間を無駄に浪費してしまうだけだった。それでも駅長は、残りの時間に何ができるか、ということについて考えるのを止めることができなかった。坊主の横を歩きながら、ぼんやりと空をながめては、まだ自分にはあの流れる雲が飛んでいく行き先をこころゆくまで見つめつづけることが許されている、と考えたりしていた。 ふと坊主の駅長を大声で呼び止める声が聞こえた。駅長が我にかえって振り返ると、坊主はある一方を指でさしていた。そこは、かつて詩人が毎日のように住人に対して宣教を行っていたあの大きな樫の木が生えているところだった。木の下では、十人近くの住人が集まっていて、なにか声高に叫んでいるのが見えた。坊主は、そこで何が行われているのか調べるために、樫の木の下にできた群集に加わろうと、駅長をさそって歩き出した。木の下まで来てみると、集まってきた住人は皆興奮しながら木を見上げてお互いに話し合っていた。木は樹齢百年以上もありそうな立派なもので、豊かに葉を茂らせていたが、横に一本伸びた太い枝の上にうそつきがまたがっていて、集まってくる人々を見下ろしているのが見えた。
0 Comments
第203回
「わしは神に自分の願いを聞いてもらったことがたくさんあるぞ。」うそつきが得意げに言った。 「どんな?」 「息子の病気を治してくれて、わしを真人間にしてくれた。」 「願いはかなってないと思うがね。」白髪の男がくすくすしのび笑いながら声をひそめて言った。 「でもあんたはその息子に医者からの薬を飲ましたりしたんだろう?」坊主が問いかけた。「もしそうなら神のおかげじゃなくて、薬が効いただけじゃないのか?どうして神のおかげだって言えるんだ?」 「だって高熱が一晩でうそみたいに下がったんだ。」うそつきは興奮して言った。「そして息子はその当日から、それまでの病気がウソみたいに動き回ったりできたんだから。それにほかにもいろいろあったんだよ。腹が減ってどうしようもなかったとき、神に『助けてくれ』って祈ったら野良犬が羽のむしられた鳥を運んできたり、また別の時は突然カエルが十匹ばかりかたまってわしの足元まで跳んできたりしたんだから。」 「あたしも若いころは何度も神様にお願いしたもんだよ。」瓜実顔の老婆が言った。「当時はとっても貧乏だったからねえ。なんとか幸せになれるように、って祈ったもんだ。」 「やっぱり祈りは通じなかったじゃないか!」白髪の男が愉快そうに言った。「祈りなんてそんなもんだよ。ある意味そんなことを信じられるだけ幸せなのかもしれんがね。」 …だからどれだけ真摯に祈れば願いが通じるかもしくは通じないか考える前に、まず自分の足で外に出て父親を探す方がよほど建設的な解決方法であろう、と相談員はにべもなく相談してきた女の子に言い放った。祈りほど現実を見つめる目をにごらせ、問題解決において邪魔になるものはない。祈りに対する努力を、ただちに父親を見つける実際的な努力に転換しなければならない。祈りで願いがかなえられる、と思い込んでしまうことから現代における怠けの問題も出てきている。今ここで現代人は謙虚に自分の足元を見つめなおし、他人まかせではなく、力強く自分で自分の願いをかちとっていかなければならない…。 「確かにそうかもしれないけど、なんだか寂しい解決法だね。」瓜実顔の老婆がため息をついて言った。 「でもしょせんそんなもんなんだろう。無駄な時間を費やすよりよっぽどいいよ。」白髪の男は、『どうかこの子のために父親が見つかりますように』と小声で祈っている眼鏡をかけた小さな老婆を、あざけるように横目で見つめながら言った。 番組が終わり、部屋にいた十人くらいの住人がのろのろと外を散歩するために出て行った。駅長は番組にはあまり集中していなかった様子だったが、坊主にうながされると、立ち上がって一緒に娯楽室を出た。 第202回
「かわいそうに、かわいそうに。」眼鏡をかけた小さな老婆は何度も繰り返した。 「そりゃあ無駄ってもんだろう。」白髪の男が気の毒そうにつぶやいた。「どうせ神なんかいやしないんだし、祈るだけでいいんなら今頃おれはこんなとこにいないだろうしね。」 「じゃあこの子の願いはかなえてもらえないのかい?」眼鏡をかけた小さな老婆はおろおろしながら尋ねた。 「無理だろうねえ。げんにまだ帰ってきていないんだし。もし仮に数年後帰ってきたとしてもそれは神とはまた別問題だろうね。」 「きっと神はこの子の願いを聞いてくれるよ。」うそつきは何度もうなづきながら言った。 「じゃあなんでひと月もこの子を待たせてるんだ?こんな小さな子を待たせておいて、神はいったいなにをもったいぶってるんだ?もしいるとしても、こんなにやきもきさせて待たせるんならいないのといっしょだよ。」 「でも神様を信じていなくても、困った時には祈ったりしてしまうもんだけどねえ。」瓜実顔の老婆が言った。 「都合のいいやつだな。」白髪の男はさげすむように言った。 「あんただってほんとうは、困ったことがあったら神様にお願いしてるんじゃあないのかい?いい格好しようとしてるだけだろう?」 相談員は、この問題は現代において避けて通ることのできないとても大切なトピックだ、と少女に向かって話しだした。この問題は要約するとつまり『祈りは未来を変えることができるか』ということになる。例えば重い病気にかかった母親のために祈るとする。祈りを唱える人にとって、そこには二通りの未来があるように思える。健康を取り戻すかもしくは死んでしまうか。そして祈りをささげる人間は、えてして死んでしまう母親を想像し、献身的な祈りによって別の未来を、つまり健康を取り戻す母親を得ようとする。つまりどれだけ真摯に祈ることができるか、どれだけ自分を犠牲にして祈ることができるかが、運命を決定する事のできる神に問われているように思ってしまう。すこしでも邪念が入ったり、怠けたりすると神が悪い方向に決定を変えてしまうかもしれない、と恐れてしまう。だから『自分のがんばりによって未来を変えたい』と思うのである。もしここで願いどおり母親が快癒したとすると、祈りをささげた人間は、これは神のおかげだと感謝するだろう。では反対に母親が病気のために死んだらどうなるか?祈った人間は間違いなく、自分の祈りの誠実さを疑い、神が自分の邪心を見抜いたのだと恐れおののくか、もしくはこの結果は神の導きであったのだ、と神に感謝しながら母の死を受け入れるであろう…。 第201回
駅長は、娯楽室に入った時からずっとうわの空でこのラジオ番組を聴いていた。ものを考えようとすればするほど、いろいろなことが頭の中を通り過ぎて行き、そのどれに対しても焦点を当てることができなかった。しかし時おりうそつきが駅長に対して話しかけたそうにちらちらと横目で見てきているのには気づいていた。坊主も何度か心配そうに駅長に話しかけてきたが、駅長はあいまいに短く返事をするだけだった。窓の外を見ると、冷たく澄んだ空気を切り裂くように雲雀が旋回していた。雲雀が飛ぶその向こうには広い空があった。範囲こそ限定されてくるが、見ようと思えばまだいろいろなものを見ることができ、話そうと思えばいろいろな人といろいろなことについて語り合えるような気がして、駅長には死ぬまでにまだ永遠の時間が残されているように感じられた。目前に迫った寿命が実感できなかったのだ。体調もすこぶるよかった。時おりまわりから聞こえてくる『魂』という言葉に触発されて、ふと今詩人の魂はどこでなにをしているのか、という考えが頭をよぎった。すると先ほど自分の部屋の窓から見た、青い空に上っていく煙を思い出した。しかしこのことはすぐに忘れてしまい、次に聞こえてきた女の子の泣き声で、なぜか昨夜手紙で読んだ、山奥の小屋で下半身が動かなくなってしまった掃除婦のことを思い出した。そしてこの呪われたような人生を送った掃除婦の魂は今どこでなにをしているのか考えてみた。 ふと駅長は不安になり、自分にも皆と同じように魂があるのかどうか問いながら、自分の胸をさすりだした。もしあるのなら、もうすぐこの奥にある魂が自分の身体から抜け出ていくはずである。坊主と詩人は数日前、この世は肉体に宿った魂を美しく磨き上げるためにある、と断言していた。駅長は自分の魂が煙のように空へと向かって上がっていくのを想像した。自分の魂はこの世できちんと磨かれたかしら?駅長には自信がなかった。 駅長が呆けたように窓の外をながめていると、番組では最後の質問へと移っていた。それは『祈り』についてだった。電話をかけてきたこの少女によると、今からひと月ほど前、突然家に押し寄せてきた『おおきな大人』二人に父親が連れ去られてしまったらしい。以来母親が毎日夜遅くまで父親を探しに出かけていくことになっていた。母親が出かけている間中この少女は、妹と一緒に留守番をしながら、またあの『大きな大人』がとびらを開いて押しかけてくるかもしれないと、震えながら妹を抱き寄せて母親の帰りを部屋の隅で待ちつづけた。そして待っている間、少女はやっと言葉が話せるようになった妹と、母親から教わった神にささげる祈りを何度も何度も繰り返して、父親が無事に戻ってくるよう両手を合わせて祈ったのであった。毎日祈りながら少女は、今頃母親は町のどこかで父親を見つけ、歓喜の抱擁を交わし、満面の笑みを浮かべて歩くのももどかしそうに少女たちに会うのを楽しみにして、家まで帰ってきている途中なのだ、と想像した。今もうまさに父親はこの家に向かって歩いてきているのだ、と心をはずませながら想像していた。そして夜中母親の足音が聞こえ、ドアのノブに手をかけてまわしているとき、少女は目をかたく閉じて一日で一番一生懸命になって祈るのであった。そんなとき少女は決まって、もうすぐそのドアの後ろには、父親が少女たちをおどろかせようといたずらっぽく笑いながら立っていてくれるように、と祈った。そして父親が入ってきたならば、まず妹に先をゆずって父親に飛びつかせ、その後ろから父親に向かって、もう自分ひとりで神にお祈りすることができるようになり、毎日きょうのこの日まで父親が無事に帰ってこれるよう、妹と一緒に祈っていた、と告げようとまで考えていた。しかしとびらから現れるのは決まって、くたびれ果てた母親の顔であった。『神様にどれくらいお祈りすれば、願いが通じるのか』という質問を少女は寄せてきた。 第200回
「どんなのだった?」 「たとえるならそれは水蒸気のようなもので、ふわふわしていて…。」 「見たことがあるのか?」 「ある。」 「どこで見たんだ?」 「ある女性が神に召された時に。」 「胸から出てくるのか?」 「どちらかというと、身体全体から浮かび上がるように出てきたな。」 「それは誰にでも見れるのか?おれは死人はいっぱい見てきたが、いちどもその水蒸気みたいなのを見たことがないがね。」白髪の男が尋ねた。 「神を信じれば見ることができる。」 「いまいちよくわからないんだが、」坊主がうそつきに意地悪く問いかけてみた。「あんたのいうその魂とやらはいったい誰なんだ?わしなのか?それともわしの中に入っている他人なのか?だいたいどうして魂は不滅なんだ?そしてもし水蒸気みたいなものならどうやって他人と区別するんだ?」 「それを理解するには、神を信じるしかないだろうね。」 相談してきた女の子は、電話口で息をつぎながら大声で泣いていた。この女の子は鍾乳洞に行ったとき、この『成長』していくつららを自分で育てようと決心して、親に内緒で小さくてきれいなつららを折って持ってかえって来たのだったが、これがただの石だとわかって落胆していたのだった。さらに追い討ちをかけるように、相談員は泣きじゃくる女の子をなだめることもせず、何千年も費やして育ったつららを無慈悲にへし折ってしまった罪に対して女の子を難詰していた。自然に対して冒涜を働いたとなじられた女の子はさらに声を荒げて泣き出した。 「かわいそうにねえ。」眼鏡をかけた小さな老婆が目に涙を浮かべながら同情した。 「ばかな子供だな。だいたい子供は無茶ばかりしやがるから嫌いなんだ。」白髪の男が言った。 「でももしこいつが言うようにつららが生きていないんだったら、どうしてこいつはこんなにむきになって怒ってるんだろうな?石くらい折ったっていいじゃないか。」坊主がつぶやいた。 「生きてなくたって、大自然のものを壊すのはいつだって罪深いことなんだよ。」瓜実顔の老婆が言った。 第199回
番組の話題が『死』について触れだすと同時に、部屋の中の住人たちは口をつぐんだ。昨日詩人の葬式が行われたばかりなので、あまりこの話題について話したくなかったのだった。しかしここで唐突にうそつきが沈黙をやぶった。 「『死ぬことがないものは、生きてはいない』というのはつまり、不滅の魂を持っているわれわれは、誰ひとり生きてはいない、ということが言えるのかもしれないな。」 「なにを言ってるんだ?」坊主が口をはさんだ。「われわれがなにを持ってるって?」 「いやだから、人間の魂が…。」 「人間の魂っていったい何なんだろうな?」白髪の男がつぶやくように言った。 「誰もが持ってる、人間の芯の部分じゃないかねえ。」瓜実顔の老婆が真顔で答えた。 「じゃあさ、例えば今おれが腕の骨を折って苦しんでるとしよう。この場合、痛がっているのはおれなのか、それともおれの魂なのか?」 「それはもちろんあんただろう。」瓜実顔の老婆が答えた。 「いや、それは魂だろう。」うそつきも答えた。 「おれが悪いことした場合はどうなるんだ?それはおれが悪いことをしたことになるのか、それとも魂が悪いのか?」 「なんだかんだ言って、あんたは責任転嫁したいだけなんだろ?」 「でも罰を受けるのはおれじゃなくて魂なんだろ?」 「でも魂はあんたなんだよ。」 「なんだかややこしい話だな。」白髪の男が首をひねった。「そもそも人間に魂なんてあるのかな?」 「もちろんある。」うそつきが自信を持って答えた。 「どこにあるんだ?」 「ここのところに。」うそつきは自分の胸を指しながら言った。 「ほんとか?開いてみると出てくるのか?」 「もちろん出てくるよ。」うそつきは答えた。 皆がうそつきの答えに対して失笑をもらした。 「うそつきさん、」坊主が意地悪くにやけながら尋ねた。「あんたは見たことがあるのか、その魂を?」 「ある。」うそつきはうなずいた。 部屋にいる住人たちは笑いをこらえながら、うそつきの顔をながめた。うそつきは口をかたく閉じて神妙な顔つきをしていた。 第198回
なにをもってして『生きている』と判断しえるか知っているか、と相談員は女の子に問いかけた。女の子がわからない、と答えると相談員は、その基準について話し出した。女の子が言うように、『食べて成長する』ということだけが生き物としての基準になるわけではない。確かに生き物全般に共通する事として、この要素を挙げることはできるが、しかしこれだけをとって、生きていると判断する事はできない。そして厳密にいうと、このつららは決して他の動物がするように、能動的に『食べて』いるわけではない。動物は口を動かして食物を体内に取り入れるし、植物も根をはって水分を吸収する。しかしこのつららは偶然そこにたれてくるしずくを頼りにしている。したがってつららの成長は偶然の産物ともいえる。もちろんとある木がとある場所に生えたのも偶然の産物と呼べるかもしれない。さらに原始生命そのものの発生は偶然の産物であったかもしれない。しかしあるものが『生きている』というとき、その言葉には『繁殖する』という意味も込められている。木は花粉を受け、実をつくり、種を残していく作業をすることができるが、つららはその場所で伸びることしかできず、自分と同じ種類のものの数を増やしていく事はできない。つまりつららには繁殖する事ができないのである…。 「ヒ、ヒ、ヒ。」白髪の男がいやらしく笑った。「繁殖できないやつは、『生きてる』ことにならんそうだぞ。ヘ、へ。うまいこと言いやがる。そういえばこの建物には、『生きてない』やつがたくさんいるな!」 「まったく下品な男だね。」瓜実顔の老婆がさげすむように言った。 「あんたは繁殖もしてないし、考えることもしないからまったく生きてないことになるな。」 …そして『成長する』ということは『蓄積される』という意味ではない。成長するというのは、食べる事により栄養分を体内に取り入れ、身体を構成している細胞に必要なエネルギーを与えて分裂していく、という意味である。すなわち細胞の増殖が成長と呼べるかもしれない。しかしつららの成長とは、実際には石灰の蓄積による大きさの変化でしかなく、これを生物学的な『成長』と呼ぶことはできない。そしてなにより、これが一番大切なことなのだが、『生きる』ということは『死ぬ』ということでもある。つまりいずれ枯れてしまう木や、腐乱してしまう動物は『生きていた』と言うことができるが、死ぬ事のないつららは、けっして生きているとは言えないのである。ここで『水の供給を止めれば、つららは死んでしまう』という主張が出るかもしれないが、この場合の『死ぬ』という言葉は、『変化が止まる』というような意味でしかなく、『死ぬ』とは比喩として使われているだけである…。 第197回
「なんだ、」坊主が不満そうに言った。「あんなもの生きてるわけないじゃないか。」 「でも確かに水を飲んで成長しているもんねえ。」眼鏡をかけた小さな老婆が女の子の質問をかばうように答えた。 「でもありゃ石だよ。石は石で石でしかないんだ。」 「でも普通の石と違って大きくなるよ。」 「じゃあ氷のつららも生きてるってことか?」坊主が納得できずに言った。 「なんにしても少なくともやつらは、不幸ではないな。ヘ、へ。」白髪の男がいじわるく笑った。 「でもほんとうに生きてるのなら、何万年も生きなけりゃいけないって、これはこれで不幸じゃないかい?」瓜実顔の老婆が言った。 「バカだな。石なんかに考えることができるわけないじゃないか。知らない間に大きくなってるだけだよ。考えようによったらこんなに幸せなこともないかもしれんな。フ、フ、フ。」 「何にも考えてなかったら、それは生きてることにならないだろ?生きてるなら考えることができるはずだよ。」 「じゃああんたは、」白髪の男がにやりと笑った。「生きてないね。」 「どうしてあんたはそう下品なんだろうね。あんたなんか石より生きてないよ!」 「いや、それにしてもどうも納得がいかんな。」坊主が繰り返し言った。「もし鍾乳洞のつららが生きてるのなら、この施設の便器にたまっていくクソのカスも生きてることになるんだぞ。」 「木や花のことを考えてごらんよ。」瓜実顔の老婆が言った。「植物は水だけであんなに大きくなったり、きれいな花を咲かせたりできるんだよ。坊主さん、あんたは鍾乳洞に行ったことがあるかい?それはとてもきれいで神秘的なものなんだよ。あれが何万年もかけて成長してるって聞いたら、そのつららも生きてるって思ってもしかたがないと思うけどねえ。ロマンチックな話じゃないか。」 「そうそう、そういえばわたしの家にも鍾乳洞のつららが生えていたもんだよ。」眼鏡をかけた小さな老婆が懐かしむように言った。「お勝手口のあたりにね。あれはきれいなもんだよ。」 「あんたはいったいどんなとこに住んでたんだ?」白髪の男があきれたようすで尋ねた。 「普通の家だよ。」眼鏡をかけた老婆が臆病そうに答えた。 「鍾乳洞のつららは何万年もかけてしか伸びないんだ。わかってるのか?」 「でもあれはとってもふるい家だったからねえ。」 第196回
「わからんやつだな。おれは戦争の犠牲になったんだ。わかるか?」白髪の男は悲劇に出てくる登場人物のように身振りを交えて訴えた。「こんな不幸なこと他にあるか?自分の国で住んでりゃこんな羽目にあうことはなかったんだ。それがわけもわからんうちに、知らん国に連れて行かれて、会ったこともないやつらにナイフで腕をえぐられなければならないんだぞ。下手すりゃそのまま死んでたかも知れないんだぞ?これこそほんとうの不幸だろう?」 「それは不幸じゃなくてただの不運だろう?ただ運が悪かっただけさ。」 「なんだって?じゃあ、あんたのも不幸じゃなくてただの間抜けだよ。他人の金を使い込んじまうようなバカな男に引っかかっただけの間抜けな話じゃないか!」 ラジオでは次の質問に移っていた。次の質問は小さな女の子からのもので、鍾乳洞にぶら下がるつらら状の石についてだった。この女の子は最近両親に連れられて鍾乳洞に行ってきたのだが、そのとき天井から生えているこのつららが何万年もかけて『成長』していると教えられた。つららは、石灰を溶かした水がつららの先からしずくとなって落ちる時、微量の石灰を残して落ちることで少しずつ成長していく。そしてその量はきわめて少なく、女の子の小指のつめくらいの長さでも伸びるためには数百年の時間が必要とされると聞かされた。そこでこの女の子は『鍾乳洞のつららは生きているのか?』と質問してきたのであった。この女の子もご飯を食べて成長しているように、鍾乳洞のつららも植物のように水を飲んで成長しているのではないか、というのが女の子の質問の内容であった。番組の相談員は質問を相づちをうちながら聞き終えると、この質問に答えるには『生』と『死』の定義をもう一度考え直さなければならない、と答えた。 第195回
「ここを見てみろ、ここを!」白髪の男は左の腕の袖をまくりあげて、稲妻のように刻まれた傷を見せながら大きな声を出して言った。「この傷が見えるだろう?これはおれが戦争中捕虜になったときに、拷問にあってこんな傷をつけられたんだ。もともとおれたちは軍の最高機密の作戦で敵陣深く潜入していて、ある部族の家に潜んでたんだが、そこの部族の誰かが密告しやがったんだ。」 「なにが『最高機密』だよ!どうせ昼寝でもしてて置いてきぼりにされたんだろ?だいいちそんな大切な作戦にどうして部族の家にやっかいになる必要があるんだ?」 「うるさいな、おれはただ命令に従ってただけで細かいことは知らんよ。なんにしてもおれは敵に捕まって、どんな理由でその部族の中に潜んでいたのか、おれらの軍の作戦内容を説明しろとせまられたんだ。でもおれは言わなかった。どんなことされたって、一言も口を聞かなかった。そりゃひどい目にあわされたさ!血の小便が出るまで蹴られたり殴られたりしたからな。あいつらの狂人じみた顔は忘れることができんね。はっきりと今でもおぼえてるよ。この傷を見るたびに思い出すんだ。そしてどんなに痛めつけてもおれが何にも言わないから、しまいに焦ってきたんだろうな。そいつらの中でいちばん意地の悪そうなのが興奮してテーブルにあった肉切り用のナイフを片手に登場したんだ。おれはもう覚悟したね。そいつの両目が血走ってて、キツネみたいにつりあがってたんだ。」 「ほんとうに殺されたらよかったんだよ。」 「でもほんとうに殺されるところだったんだよ!そいつ気が狂ったみたいにナイフを振り上げておどりかかってきたんだから。体は縛られてたけど、かろうじてそいつの攻撃をかわしたんだけど、ここのここんとこにナイフを突き刺されてね。」白髪の男は自分の傷口を指差しながら言った。「それから豚でも解体するみたいにぐいぐい骨にそって切りやがった!痛くて痛くて気を失いそうだったよ。」 「うそばっかり!」 「うそなもんか!」 「じゃ、どうして豚みたいに解体されなかったのさ?」 「されかけたんだ。でもすんでのところで、そいつは同僚のやつらに止められたんだ。」 「どうして?」 「知るもんか!おそらくおれに死なれたら必要な情報も聞けなくなるからだろう。」 「それでその話のどこが不幸なんだい?」瓜実顔の女は侮蔑の色を浮かべながら言った。「ただ腕に怪我しただけの話だろう?あたしの方がよっぽど不幸じゃないか。」 |
木鳥 建欠
|