「真実について」の最終回です。
「説得」と「納得」が大切であると書きました。 こちらからも読めます。 真実について:「説得」と「納得」 こういう結論をつきつけられると、「真実がないのであれば、世の中はなんでもありではないのか?」という考えを出す人が出てくることがあります。 基軸となる価値観(真実)がないのであれば、行動の基準がないということなので、何をしてもよいということになると考えるからです。 しかし世の中は「何でもあり(Anything goes)」ではなく、人々が集まるとある一定の基準が作られて、それを中心にして生活が営まれます。 それではなぜ世の中は、「何でもあり(Anything goes)」にならないのか。それは個々人もしくは個人が所属する社会で共通の「真実」があるからだと言えます。それぞれが信じる基軸となる価値観(倫理、正義、真実)があるので、「人を殺してはいけない」や「盗んではいけない」などの考えを共有することができます。 数百年前から営々と続けられてきた共同体の中で、培われてきた価値観が、そこで暮らす人々の「真実」となって育って行くのでしょう。 そして自分たちの「真実」が完全なものだと思い込むと、他の共同体にある「真実」と摩擦を起こしてしまいますし、腕力が強い方による「真実」の強要も起こります。 もしもヴィトゲンシュタインが言うように、「『真実はあるか?』という質問は文法間違い」なのだとすると、この「真実」の強要は、誰にも否定することができない真実があるのだと思い込んでいることから来る勘違いと言えるでしょう。 しかしいくら自分が信じる「真実」を相手に強要するのは勘違いと言っても、現実にはこのような強要は、ちまたでたくさん行なわれています。この強要の根拠は、「この真実は正しいので、『受け入れる、受け入れない』という相手の態度は関係なく、『受け入れるしかないのだ』」というところからきています。 正真正銘の「真実」があるのだとすると、受け入れないという選択肢は残されないからです。 ただこの強要を「説得」行為であると置き換えると、ヴィトゲンシュタインの言う「真実はあるか?」という勘違いからかろうじて逃れることができます。 「真実はあるから受け入れろ」ではなく、真実を伝える行為を「説得行為」であると割り切ってしまうのです。 仮に相手が自分の「真実」を受け入れてくれた場合、それは真実だったから受け入れたのではなく、相手が「納得した」からだと理解します。 そして相手を「説得」させられなかった場合は、相手の「真実」に対する不見識のせいではなく、自分が相手を「納得」させられなかったからだと思うことができます。そして相手が「納得」しなかったのは相手のせいではなく、説得する側が成功しなかったためだと言えるからです。 「強要」と「説得」の違いは、相手に受けいれいてもらう考えが正解か不正解か問うのではなく、説得力があるかどうかが問題になってきます。 「真実」のやっかいさは、どこの誰にでも通用するものと思ってしまうことです。どこの誰にでも通用する価値観を得たと思う人は、その価値観を共有できる人とできない人にわけてしまいます。「真実はあるのだから、真実を受け入れられない人は間違っている」となってしまいます。 そこで「そういう質問をしない」よう気を付ける必要があります。その上で、「説得」と「納得」が重要となってきます。相手が自分の「真実」を受け入れてくれなかったのは、「納得」してくれなかったからだし、「納得」させられなかったからだと言えます。 「真実」を語る上では、この「説得」と「納得」がとても大切であるように思うのですが、今回ここでうまく読者を「説得」できた自信がありません。また別の機会に、別のテーマで書いていきたいと思います。
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木鳥 建欠
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