第198回
なにをもってして『生きている』と判断しえるか知っているか、と相談員は女の子に問いかけた。女の子がわからない、と答えると相談員は、その基準について話し出した。女の子が言うように、『食べて成長する』ということだけが生き物としての基準になるわけではない。確かに生き物全般に共通する事として、この要素を挙げることはできるが、しかしこれだけをとって、生きていると判断する事はできない。そして厳密にいうと、このつららは決して他の動物がするように、能動的に『食べて』いるわけではない。動物は口を動かして食物を体内に取り入れるし、植物も根をはって水分を吸収する。しかしこのつららは偶然そこにたれてくるしずくを頼りにしている。したがってつららの成長は偶然の産物ともいえる。もちろんとある木がとある場所に生えたのも偶然の産物と呼べるかもしれない。さらに原始生命そのものの発生は偶然の産物であったかもしれない。しかしあるものが『生きている』というとき、その言葉には『繁殖する』という意味も込められている。木は花粉を受け、実をつくり、種を残していく作業をすることができるが、つららはその場所で伸びることしかできず、自分と同じ種類のものの数を増やしていく事はできない。つまりつららには繁殖する事ができないのである…。 「ヒ、ヒ、ヒ。」白髪の男がいやらしく笑った。「繁殖できないやつは、『生きてる』ことにならんそうだぞ。ヘ、へ。うまいこと言いやがる。そういえばこの建物には、『生きてない』やつがたくさんいるな!」 「まったく下品な男だね。」瓜実顔の老婆がさげすむように言った。 「あんたは繁殖もしてないし、考えることもしないからまったく生きてないことになるな。」 …そして『成長する』ということは『蓄積される』という意味ではない。成長するというのは、食べる事により栄養分を体内に取り入れ、身体を構成している細胞に必要なエネルギーを与えて分裂していく、という意味である。すなわち細胞の増殖が成長と呼べるかもしれない。しかしつららの成長とは、実際には石灰の蓄積による大きさの変化でしかなく、これを生物学的な『成長』と呼ぶことはできない。そしてなにより、これが一番大切なことなのだが、『生きる』ということは『死ぬ』ということでもある。つまりいずれ枯れてしまう木や、腐乱してしまう動物は『生きていた』と言うことができるが、死ぬ事のないつららは、けっして生きているとは言えないのである。ここで『水の供給を止めれば、つららは死んでしまう』という主張が出るかもしれないが、この場合の『死ぬ』という言葉は、『変化が止まる』というような意味でしかなく、『死ぬ』とは比喩として使われているだけである…。
0 Comments
Leave a Reply. |
木鳥 建欠
|