第113回
この時点で王の昨日からの喜びは自信にかわっていた。まったく何もない大海原の真ん中で食糧も水も補給することができたのだ。飢えも渇きもない。もうどんな障害でも乗り越えていくことができるような気がした。王の弱気だった視線にも鋭さが戻ってきた。やせ衰え身なりは粗末なものだったが、胸を張ったその姿勢には威厳が増してきた。そうだ、わしはいま自分をとりもどしたのだ!失いかけていた自分を取り戻すことができたのだ!そしてもう見失うことはないだろう。王には自信があった。いつまでだって生きつづけてやる。そしていつの日か、またいつの日かに…。王はこの先の言葉をやっとのことで飲みこんだ。 雨は翌日もつづいた。窓から見える範囲では見わたす限り空は雲で隠されている。風は強くないので海面のうねりは少ない。真上から間断なくしとしとと雨が落ちてくる。それは粘りつくような雨だった。雨による湿気でふんだんに水分を含んだ空気は部屋の中にまで浸入してきて、部屋のものすべてをしっとりと湿らせた。しかしこれは王にとって苦にならなかった。霧のように吹きかけてくる湿気が、いままでミイラのように王の体から失われた水分を補っていたからだ。体中が渇いたスポンジのようになって水分を吸い上げていた。それに王はもう多少の問題では動じることがなくなっていた。『生きるための根源的ちから』が、石炭を充分に入れられた出発前の蒸気機関車のカマのように沸き立っていたのだ。 部屋の異変に気づいたのは翌々日のことだった。この日も依然同じような雨が降り続いていた。たらいの水をすすり、まだ生きている魚を数尾口のなかでごりごりとかみ砕いているとき、王はその異変に気づいた。部屋の天井の隅が連日の雨で腐食して黒ずみ、そこから雨が漏れてきているのだった。雨漏りは、ぴたりぴたりとすぐ下にある、いまは小魚を泳がせている樽のふちに落ちてきていた。王はかすかに舌打ちを打った。なぜなら王にはこの腐食をなおすべく材木を持っていなかったからだ。腐食するにまかせるしか手立てがない。ちっ、せっかくの気分を害しおって。王はうらめしげに天井をにらみながらつぶやいた。そして樽のふちにのぼって腐食部分を調べてみた。もともとこの部屋を作るときに劣悪な材木を使ったのだろう、この腐食部分は王がすこし押しただけでやぶれてしまった。そのとたん、たまりにたまった蒸気がやっとのことで逃げ場を見つけたように、王の怒りが噴出した。やっとのことでつかみかけた、生きていく実感がまたするりとすり抜けていった気がしたのだ。根拠のないものに希望を見ていたような気がしたのだ。いっぺんに頭に血がのぼり、王は顔を真っ赤にしながら前後のみさかいがなくなって手当たりしだい、まだ腐食していない部分もにぎりしめたこぶしで突き破り、天井の一隅に樽くらいの大きさの穴をあけてしまった。チクショウ!王は天井の穴を見つめたまま怒りに体を震わせていた。でもまだわしはあきらめてはおらんからな!あきらめておらんからな!王はあえぎながら誰にともなく叫んだ。何度も叫びながら、自分は天井に穴をあけたことを悔いていない、ということを自分に言い聞かせた。事実王は悔いていなかった。そして愚かな行為にともなうむなしさも感じていなかった。王はただとてつもなく強い相手からたたきつけられた挑戦状を拒むことなく、歯をむき出しにして受け入れているだけだった。
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第112回
そして王の喜びがひとしきりおさまると、いそいそと部屋中を泳ぎまわっている魚やエビを追いかけてはたらいで拾い上げ、海水といっしょに樽の中に慎重にうつしかえ始めた。じきに樽はこれらの収穫で一杯になった。くたくたになりながらも翌日までかけて部屋の海水をすべて取りのぞくと、樽の中に泳ぐ魚を大切に育てた花壇の花のようにいとおしそうにながめてから、安心したように寝床に疲れきった体を横たえた。しかしそれでもそわそわと落ちつかず、夜中なんども、いまつかまえた魚が夢まぼろしのように消えてしまうのではないかと不安にかられて寝床から飛び起きては、樽の中の魚が現実のものかどうか確かめなければならなかった。 翌日も王の幸運は続いた。目が覚めると、王はいつもよりも部屋の中がうす暗く、いつもより涼しい風が窓から入ってきているのに気づいた。そこには、この刑に処されてこの部屋での生活をはじめてからいちども聞いたことのない音が部屋中にひびいていた。懐かしくやわらかい音だった。そしてそれには独特のにおいがあった。生命の源泉を嗅ぎ取れるようなにおいだった。王はまさかと思い、寝床から跳ね起きて窓から外をのぞいてみた…。はたしてそこには、王の思ったとおり細かい雨が降っていたのだ。そしてこの音は雨がこの部屋の天井を打っている音だったのだ。王は何度も自分の両手を窓から伸ばせるだけ伸ばし、雨を手のひらにためては大事にこぼさないよう口まで運んでうまそうにすすった。塩気がないだけなのだが、王にとってこの液体はすばらしくうまいものに感じられた。何ものにもかえがたい味に思えた。体のすみずみまでしみわたっていく透明の液体。大切に運ばれた水はまずかさかさにふくらんだ口内を潤し、そして腹にすべるように落ちていった。また新たに気力が充実してくる気がする。存分に水を体に補給し終えると、保存用に残しておくため、ふたつのたらいを窓から出して雨をためた(もっとも部屋が揺れると大半がこぼれ落ちたのだが)。 第111回
…今、部屋にあふれた水に浮かびながら、王はこの女のことを思い出していた。そしてこの一千年間水中に溺れている女のことを思い返していると、いままでこの圧倒的な状況に押しつぶされていたなにかが、体の奥底からあふれ出してきた。それは何か体の中心あたりで今まで干からびていた魂が蘇生されたように潤い、逆境のなかで真っ黒に塗りつぶされていた頭の中を、楽天的ともいえるくらいの明るい光で照らしはじめた。それを王は『生きていくための根源的ちから』と名づけた。そうだ!王は叫んだ。選ばれた人間の使命を自覚せねばならんのだ。こんなところで虫けらのようなやつらの罠にはまってはならんのだ!まだ死ぬわけにはいかん。わしは強い人間であることをしめさねばならんのだ!王はザブリと起き上がると、膝の上まで溜まった水をかきわけて穴をふさいでいたコルクの栓を探し出し、もう一度穴につめ込んだ。そして一昼夜かけてたらいで海水を窓からすくい出した。とちゅう何度もちからが抜けてめまいを起こし、寝床に横たわらならなければならず、作業はなかなかはかどらなかったが、この骨の折れる作業は王にとって思わぬ収穫をもたらしたのだった。おそらく栓を抜いて部屋に海水を入れたときに、いっしょに小魚やエビを吸い上げていたのだろう、たらいで海水をすくい上げるときに王はそのなかに小魚が数匹泳いでいるのに気がついた。 しめた!王は狂喜した。そして夢中になってたらいに泳いでいる小魚を何匹かつまみあげるとうまそうに咀嚼した。久しぶりに新鮮な食べ物を賞味した王は落ちついてあたりをよく見回すと、今までまったく気がつかなかったのだが、たくさんの小さな魚やエビが泳いでいるのを見ることができた。なかには王の指くらいに大きなものもいた。おそらく魚の群れが偶然部屋の下を通過しているときに王が部屋の栓を抜いたので、海水といっしょにくみ上げられたのにちがいない。 そういえばどこかで聞いたことがあるぞ。王はつぶやいた。かもめが飛ぶ所には魚の群れがいる、とだれかが言っていたっけ。王はこの発見を喜んだ。反対に言えば、かもめを見つけてそこでまた栓を抜きさえすれば魚が手に入るんだ!王は無限の食糧を手に入れたような気になっていた。それじゃあここは食糧庫の上に浮かんでいるようなもんじゃないか。だとすると危ないところだったな!あやうくくいもんの真ん中で飢え死にするところだった。王はほくそえんだ。そして自分の運の強さを誇りたい気分になった。どうだ!わしはやっぱり選ばれた人間なんだ!さきほど王みずからが命名した『生きていくための根源的ちから』が手伝ってか、自分の幸運さに久しぶりに高らかに笑うことができた。それはおさえることのできない勝利の凱歌だった。 第110回
王は地面に這いつくこれらの人々を夢中になって観察していた。何百人もの人間がそれぞれの個性や、地位、状況などをこえて皆一様に同じ動作に支配されているのが不気味に感じられるのと同時に小気味よくも感じられた。もうあと幾日もすれば死んでいたかもしれない老婆も、威厳と徳と輝かしい地位をもった王も、平然と人を殺しまわりから恐れられていた罪人も例外ではなかった。数時間後にまた太陽が昇り、水かさが増え、藻のように水中に没するまでに、それを避けるために懸命に足を木の根から振りほどこうとしている。彼らは毎晩のように溺れ死ぬ恐怖からのがれようと一晩中焦っている。そしてそれが何百年もつづけられている。王は彼らに同情もし、同時にさげすみもした。 どんどんと奥の方にすすんでいくと、水の引いた湖のほとりまで来た。そこは平らな湖面が真上にある月に反射し、ひときわ明るかった。老人の言うには、このあたりにいるのが、この記憶の湖にのみこまれた一番ふるい人たちらしい。この記憶の湖が記憶する一番ふるい人は一千年もまえにさかのぼるのだという。そしてそこにはひとりだけ、ゆいいつこの一千年の間いちども足にからまった木の根をはずそうとせず、一千年の間ずっと立ちつくす女がいるのだ、と老人は説明した。 「その人間だけだ。」老人は湖のほとりを先導して歩きつづけながら言った。「この一千年の時間いちども逃げようともせず、うらめしいような声もださず、ただひたすら立ちつくしておるのは。何百何千という人間を飲みこんだこの湖だが、こんなに何も抵抗しようとしないのはこの女だけだ。自分のこの悲惨な状況をただひたすらがまんしておるんだ…。ほら。」 老人が指をさす方向には、たしかに微動だにせずまっすぐと前をみすえている女がいた。水気を含んで重そうな髪を腰までたらし、あたまからかぶった白く長い綿の布が濡れているために体に膜のようにまとわりついていた。離れて見ると白い布が暗い泥の闇のなかで鈍く発光しているようにも見えた。老人とふたりでこの女に近づいていっても、すこしも気をとられるようすもなく遠くを見つめていた。足元を見ると、枝が女を放さないようにしっかりとからみついている。なめらかな頬は生気がなく白かったが、小さなかたく閉じられた唇は血を塗られたかのように紅い。大きく見開かれた緑色の目はまばたきをする必要のないくらいしっとりと濡れていた。二人が目の前に立っても女は視線をふたりにあわせようともしなかった。 「この女の素性はだれもしらんのだ。他のやつらは根気よく問いかければなんとかこっちの質問に答えてはくれるんだが、この女だけは口を開こうともせん。こんな強情な人間は何百万人にひとりいるかいないかだろう。へ、へ。でもこいつは気が違ったのでも、放心しているわけでもない。ただわかるのはおそろしくプライドが高い、ということだけだ。まれに見る強い意志をもっておるんだ。どんなに魂をすりつぶすような経験をしても決して音をあげないだろう。わかるか?本当の威厳をもった人間というのはそうめったにいないということだ。」 王は無言で女を見つめていた。王は心を奪われてしまっていたのだ。身動きが取れないくらいに熱心に、王に対してまったく関心をしめさない女を見つめた。高鳴る鼓動を飲み込むようにして平静をたもち、ゆっくりと女に向かってふるえる手を伸ばした。のぼせてしまったように、王にはもう衝動を抑えることができなかったのだ。王の手が吸い寄せられるように女の体に近づいていく。そして女の腰のあたりにぴったりと手のひらをあてると、女の濡れて冷たい布を通して皮膚のぬくもりが伝わってきた。心臓が胸を破りでてしまうのではないか、と感じられるくらいに王は興奮していた。布を通して女の皮膚のなめらかさも伝わってくる…。そのとき女が突然自分の体に触れる王にするどい視線を向けた。その熱のこもった視線には怒りとさげすみがこめられており、王はそれに圧倒されたように手を引いた。そしてかすかな屈辱を味わった。老人は横で憎々しげにはにかんでいた。 それから王は毎日のように昼間湖に通い、水面に張り出している枝にまたがっては、その女が沈んでいるであろう方向を凝視しつづけた。そして水中で足のからまった女が、その長い髪をゆらゆらと広げているのを想像した。その髪は威嚇するようにも、魅了するようにも見える。そして女はまばたきせずにただ一点を見つめつづける。もう一度あの女に会いたいと何度も思いつめたが、王はもう案内人の老人と出会うことがなかった。そして自分ひとりで行くことはなぜかためらわれた。ひとりで行くと必ず湖に飲み込まれてしまうような気がしたのだ。 |
木鳥 建欠
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