自己認識:「平凡」の見きわめ方
前回は、ドストエフスキーの「白痴」を引用して、自意識の高い現代人にとって、「平凡」という評価くらい侮辱的なことはないと書きました。 反対に「天才」は、広い海に点在する孤島くらいの割合でしか存在しません。 しかし(みずからを含め)自意識の高い現代人は、なんとか「平凡」という海から離れられるよう、何かしらの存在意義を誇張したがって、自分が「平凡」でないことの証明にやっきになってしまいます。 世の中の人々それぞれが、自己を「特別な存在」と認識して、「平凡」であることを拒んでいるわけです。 ただ世の中に「天才」というのはそれほどいるわけではありません。 以前「仏教」について書いた時に、「金剛般若経」で説かれている教えを紹介しました。 それによると、「本当に尊敬されている人は、自分が尊敬されていると思っていない」し、「本当に覚りひらいた人は、自分が覚りひらいたと思っていない」と書かれてありました。 当然、尊敬されるような人は「自分は尊敬されている」と自ら誇らないですし、覚りをひらいた人が自慢げに誇示するはずがないのです。またそれを誇るような人であれば、尊敬もされないし、覚りもひらけるはずもないのです。 同様に、世にいる数少ない「天才」も自らの「天賦の才」を誇るかというと、非常にあやしい気がします。自らの能力を過信しないからこそ、天才たる地位を築けたのだと推測できるからです。 となると自らを「特別な存在」として任じている人たちは、「特別」であると認識するがために、「特別」でないということになってしまいます。世にたくさんいる「特別な存在」の中の一人である、「特別でない存在」となるのです。 自分が「平凡ではない」と思えば思う程、「平凡である」ことの証左となってしまいます。 トリックアートのようですが、自分がそう認識すればするほど、その認識と正反対の方角で評価されてしまいます。本当の凡人は自分を凡人と認識できないのです。 自らを謙虚に「凡人である」と認識するためには、屁理屈のようですが、まず自分を「特別な存在である」と認識することから始めるとよいかもしれません。自分が「特別である」と思えば思う程、平凡な人間なのだと認識するようすれば、謙虚になれるかもしれません。 くだらない自尊心が「特別な人間だ」と思わせる時、そんな風に、自らをなぐさめています。
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木鳥 建欠
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