久しぶりに投稿します。
以前にもありましたが、「作家の日記」を載せていきたいと思います。 今回は、「真実について」です。 全部で3回に分けて掲載いたします。 今回は、「『真実』の定義」となります。 こちらのページからもご覧いただけます。 真実について:「真実」の定義 以前も「真実」について書きましたが、今回もこの大仰なテーマについて書きたいと思いました。前回このテーマについて書いた時は30代でした。現在は40代になりましたが、年を経るごとに「真実」に対するこだわりが以前よりへってきているように感じられます。 「真実」を定義するとすれば、時空を超えた価値と言えるでしょう。時代や国境を超えても通じるものです。地球の裏側でも、1000年も前の人にも、そして1000年後の人とも共有できる価値観です。 話しがややこしくなるのは、そういった価値があるのか無いのかを証明しはじめようとする時です。有るとすれば、それは何なのか、無いのだとするとこの世は「なんでもあり」なのか、考えることになります。 もしも時間も空間も超える価値観が世の中に有るのだとすると、他の誰にも否定できることではなくなることになります。誰にも否定できないとなると、受け入れたくなくても共有してもらわなければならなくなってしまいます。 自分の経験からも、若い人、特に二十代の人の方がこの「真実」に対するこだわりが大きいような気がします。そしてそれに対する態度も真摯なような気がします。普遍性の高い「真実」を共有できない相手に対して、誠実にそしてひたむきに押し付けようとしてしまいがちです。 悪いことをしているのに認めない人、強欲さをむき出しにしている人、(貴賤に関わらず)生活を保証されながら怠惰に暮らす人、そして何より弱い立場にある人を助けようとしない権力に対して、若い人は大きな幻滅を感じがちで、「真実」(この場合は正義や謙虚さ、平等など)を暴力的に押し付けるか、できなければ世を詠嘆してしまう傾向があるように思います。 俗に言うならば、若者にとっての「大人の汚さ」となるでしょう。 反対に年を経ると、人は考え方の融通が利くようになってきます。信念(真実と信じるもの)があっても、相手の立場をおもんばかって、結果として信じていることではない行為を許すことがあります。本来ならばダメとわかっていることでも、つい心がゆらいでしまいます。よく言えば「思考の柔軟さ」と呼べるかもしれませんし、悪く言うと「信念のなさ」になります。
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木鳥 建欠
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