自己認識:「平凡」と「天才」について
前回は、「謙虚な自己認識」の難しさについて書きました。 自分含め、大部分の人は自分について、実際の能力以上な人間と認識して生活しているのではないかと思われます。 もちろん「天才である」とまで過信はしている人はそれほどいないと思いますが、「特別な存在である」くらいのささやかな自信はもっているのではないでしょうか。 反対に言うと、「自分はきわめて平々凡々な人間である」と認識している人は少ないと思います。 自意識とは、我が身を「我が身」と認識する力と言えますが、その根拠となるところは己の能力であったり、自分が所属するグループであったりします。 自分の事を認識する場合、よりどころとなるのは、どこで生まれ、どこで学び、どこに所属して、どんな能力を持っているかなどが、自らを「自ら」と認識する材料となります。しかしそういうよりどころを過剰に持ちすぎると、妙なプライドが出てきてしまうこともあります。 学閥を誇る人間、腕力を誇る人間、財力を誇る人間、家柄を誇る人間、数奇な運命を誇る人間、有能な子供を誇る親、食欲や性欲の強さ、果ては病気の種類を誇る人間もいるかと思います。 どこか他人との違いを際立たせるものを誇るのは、自分も含め、往々にしてあることです。 ドストエフスキーは、現代に住む人間の問題として、「過剰な自意識」を挙げています。 「地下室の手記」の主人公は、その手記のはじめの方でこう書いています:「あまりに意識しすぎるというのは、病気である。正真正銘の完全な病気である」(江川卓訳p.11)。 この本の主人公は、自分が持つ自意識によってがんじがらめになり、常に相手に自分を認知してもらうことにやっきになり、しまいには人付き合いができなくなって、地下室に引き籠ってしまいます。 作者はこの人物を、「最近の時代に特徴的であったタイプ」(同上p.5)として、すこし強調する形で描いたようです。 過剰な自意識は、自らを何者か(特別な者)であると認識してしまい、「平凡」であると認めることができません。何者かである(もしくはありたい)と信じている人にとっては、「平凡」という何者でもない評価は屈辱と受け止められます。 これもドストエフスキーの作品ですが、「白痴」において主人公から「平凡」と評された登場人物がこう話します: 「現代の人間にとっては…(中略)きわめて平凡な人間だと言われるほど侮辱的なことはありません…」(「白痴」上巻 木村浩訳p.233)。 自意識とは、自分が何者であるかという認識をすることであるのに、反対に平凡とは何者でもないと宣告されている気がしてしまいます。
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木鳥 建欠
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