前回の「真実について」の二回目です。
今回は、「ヴィトゲンシュタインと『真実』」について書きました。 こちらからも読めます。 真実について:ヴィトゲンシュタインと「真実」 「真実」があるとすればその難しさは、誰にも否定できない、有無を言わせる隙をあたえないその正当性にあると言えるかもしれません。 大学にいた頃、ヴィトゲンシュタイン(Wittgenstein)の「真実」に対する考えが紹介されている本を読む機会がありました。 その本によると、ヴィトゲンシュタインは「真実があるかどうか」という質問自体してはいけないと説いていました。 さらには、2000年前の古代ギリシャの哲人から続く、哲学的命題のほとんどは文法間違いであるとも説明されてありました。 ヴィトゲンシュタインは、哲学的命題は単なる文法間違いから起こっていると考えていて、哲学者本来の仕事はこういった言葉の勘違いを、からまった紐をほどくように解決することにあると説明していました。 具体的に言うと、例えば英語でTo existは「存在する」という動詞になるが、これをTo drinkやTo walkなどの動詞と同じ様に使ってはいけないと説いています。理由は動詞の種類が違うからです。 「この部屋に何人アルコールを飲めない人がいますか?」という質問は成り立ちますが、「この部屋に存在しない人は何人いますか?」という質問は意味をなさないからです。 名詞や動詞にはそれぞれの役目があるのに、別の種類のものと混じり合わせると、一見まともな文章に見えても、実はそれぞれの単語の範疇(もしくはカテゴリー)をこえた使い方になってしまいます。「重い赤」や、「6の匂い」や、「サラサラの怠惰」などがそれです。 つまり、「この机の上に本はありますか?」と同じ文法「AにBはありますか?」を使って、名詞だけ交換して「赤色に味はありますか?」が成立しないように、「この地球に神(もしくは真実)はありますか?」という質問は成立しないということです。 一見間違いのない文章に見えても、使い方を間違えると、意味のない迷路に迷い込んでしまうのです。「赤色」の重さが永久に測れないように、「真実」や「神」の存在も永久に答えが出ないでしょう。 そういうわけでヴィトゲンシュタインは、「真実はあるか?」という質問は、文法間違いであると説明していました。
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木鳥 建欠
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