政治家の印象について
日本でも失言ばかりする政治家が、会ってみると実はユーモアあふれる人物であったり、誠実であったりするということを聞くことがあります。 ムッソリーニも、実際に会ってみると篠田博士のように好感を抱かせる人物であったのかもしれません。ただメディアを前にすると、別の側面がムラムラと沸き立ち、別の印象を与えてしまうのでしょう。 もしかすると政治家としてそういう風に振る舞おうと意図的にしていた場合もあったかもしれません。 ただメディアでは嫌われていたかもしれませんが、同時に、当時は熱狂的な支持者もいたようです。 1935年、Kelenがイタリア・ストレーザでムッソリーニを見かけた時、周りには「ドーチェ!ドーチェ!(イタリア語で国家指導者を指す称号)」と10分間も叫びつづける若い兵隊に囲まれていたようです(p.287)。当時イタリアは、世界恐慌のあおりもあり不景気の真っただ中にあり、エチオピアにも侵攻しているところでした。 ムッソリーニが李王率いる日本の使節団に対して紳士的に振る舞ったのも、ムッソリーニなりの日本に対する政治的な意図があったかもしれません。 メディアが嫌いで、傲岸不遜で、大言壮語のきらいがありながら、実際に会ってみると意外と紳士的であったというのは、書いていてどこか第45代アメリカ大統領であるドナルド・トランプを想起させました。 彼の北朝鮮拉致被害家族に対する態度は、非常に紳士的であったと聞いたことがあります。そして彼の軽はずみな発言や、「実は」と思わせるような(と支持者には取られている)態度、植毛をしていたというエピソードなどスキのうかがわせる政治家像は、どことなくムッソリーニのような、おっちょこちょいな印象を抱かせます。 その上で政治家の歴史的評価についても考えさせられます。 ムッソリーニのように、歴史的評価が定まった人物に、篠田博士のような評価を読むと、ふと別の惑星から来たように思われていた人についても、同じ人間だったのだなと反省の混じった感慨を持たされます。
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木鳥 建欠
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