第78回
掃除婦は、花を眺めながら希望と絶望を一度にもらったかのように、放心しながら花に見入っていた。詩人は温かい日に照らされている掃除婦の顔を見て、月日が彼女の顔にけずった、重病人のような陰鬱な影にあらためて驚かされた。数十年前に見た掃除婦の顔にも確かに過酷な労働による疲労が滲み出ていたが、今の顔には幼子が継母を見るときのような深刻な不信があらわれていた。詩人には、以前の掃除婦の顔には少なくとも信仰の芽があったように思われた。大きな信仰に育つであろう芽が、確かにそこにはあったように思われた。おそらくその芽を育てる機会に恵まれなかったのであろう。そしてそんな掃除婦を詩人は不憫に思った。神の恩恵に浴することができたはずであった、そしてそれによってまったく違った人生の時間を過ごすことができたはずであったのに、反対に不毛の時を過ごしてしまった掃除婦に、深い憐れみを感じた。そして詩人は掃除婦と再会して以来、その芽をもう一度ふき出させるよう努力することを決意した。今までことごとく失敗してきたが、せめて死ぬまでに掃除婦の魂だけでも救済することを強く神に誓った。神の教えで掃除婦の心を清め、その恩恵に浴させたいと切望した。そしてそれから詩人は、掃除婦の信仰心を起こすためにその姿をどこまでも追った。周りの目も気にしないで、一時も掃除婦から離れないように、しつこく神の教えを説いた。掃除婦もそういう詩人を追い払おうとしなかった。もしかすると心のどこかで、魂を救済されることを望んでいたのかもしれない。だから掃除婦は、救済される上で障害になり得るような心にひっかかる疑問など、詩人に挑戦するように質問したのかもしれない。それは、まるでそれらの障害を完全に取り除かなければ、信仰の芽をもう一度育てる土地が用意できないかのようであった。そしてその障害がなくなった上で、掃除婦は詩人の考えを受け入れる覚悟をしていたのであろう。 それらの質問はしかし、特に特異なものはなく、掃除婦の生活からにじみ出たものばかりであった。そしてそれは詩人がその長い伝道生活で幾度となく投げかけられたものであった。
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木鳥 建欠
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