第70回
風ひとつおこらない静かな夜だったが、家の中にともるロウソクの火は母親の感情の揺れとともに大きくゆらいでいた。そしてその火によって背後の壁にうつるそれぞれの影は、水中で溺れているようにもがいていた。息子は顔色も変えずに母親と詩人を交互に見つめ、掃除婦は心配そうに母親と詩人の会話を聞いていた。 「知っているよ、知っているよ。あんたの言うカミはあたしたちが生きてるこの世の中でたくさん、それこそその人が耐え切れないくらいたくさんつらい思いをさせて苦しんで死ぬことをあたしたちにもとめてるんだろ?ちょっとやそっとの悪人じゃ思いもつかないような手の込んだやり方で、あたしたちをぎゅうぎゅうしぼりあげたあげく、『そういう不幸も必要なんだ』って言うんだろ?『弱いものの方が強い』とか『損をしたほうが得だ』とか言って、なんにも見えない場所を指差してそこがどれだけきれいで素敵で満足のいくところかあたしたちをなっとくさせようとするんだ。でも不公平じゃどうしてだめなんだい?どうして『今の苦労が後に報われる』とか言ってごまかそうとしなきゃだめなんだい?不公平でいいじゃないか。なにもバカにするみたいにペテンにかけなくたって…。そんなにあたしたちがバカに見えるかい?そんなウソみたいな話を聞いて喜んで飛びついてくるとおもったのかい?いいじゃないか、別に金持ちがのんびり生きてる横で貧乏人が苦しんでたってさ。それなのにあんたたちはおせっかいに貧乏人を抱き上げて『心配しなくてもあんたの苦しみはあの世で報われるが、あそこで良いおもいをしている金持ちは地獄で業火に燃やされるんだよ』なんて言ってなぐさめるんだよ。でもね、こんなのはなんのなぐさめにもならないのさ。ただみじめになるだけさ。あたしたちが、金持ちが燃やされるのを見て喜ぶとでもおもってるのかい?」母親は憎々しげに笑って詩人の顔をうかがった。 そして詩人が何か言おうとすると母親はそれを遮ってまた話はじめた。
0 Comments
Leave a Reply. |
木鳥 建欠
|