第50回
駅長はため息をついた。うそつきはそれを聞こえていないふりをした。待合室に集まった人たちは次第におとなしくなっていき、それぞれの場所で釣り上げられた魚のようにぐったりと座っていた。 「でもわし自身そんなこと、微塵も信じちゃいなかったけどね。」うそつきがつづけた。「まだ何年も昔の話だが、こう見えても昔は妻と子供がいたんだ。しょっちゅういがみ合ってたよ。けどぜんぶわしが悪かったんだ。ひどい家に住まわせて、みっともない服を着させてずいぶんと恥をかかせたんだから。さらにありったけの金で酒を飲んでたんだからね。そしてこういうこといっさいをわしはいつも悪いことと知っていながらやっていたんだ。わしの子供―当時はまだ幼かった息子―なんて生まれてからほとんどわしとしらふで会ったことがなかったから、わしを見るたびにおびえてびくびくしながら隠れてしまうしまつさ。まだほんのちいさな自分の息子に、鬼でも眺めるように物陰から上目遣いで見られるなんて罪深いことなんだよ。本当に地獄のような毎日だった。母ちゃんがいつもわしの面を見るたびに口癖のように言ってたな、『せめて主人面だけはしないでくれ』って。けど主人面なんてとんでもない話だ。いつも母ちゃんの前ではびくびくしていたんだから。とても良い人間だったけどこわい母ちゃんでね。すぐに隣近所に聞こえるくらいの大声を出すんだ。それに酒飲んでフラフラになっていても、母ちゃんのみすぼらしいよれよれの服を見るたびに良心が痛んでたんだ。心の中で手を合わせて泣いてたんだよ。本当さ。今から考えると間抜けな話だが、わしは心の奥底で自分は本当は真面目で善良な人間なんだ、と信じて疑わなかったんだ。今はほんの少し悪に心を惑わされているだけで、その気になればいつでも本物の正しい道に戻ることができる、と信じていたんだ。そして戻ることさえできれば、家族だってすぐに自分のことを許してくれて仲良く上手くやっていけると思ってたんだ。そしてある日、その時がきたんだ。自分の今までの間違いから正しい道に戻してくれる絶好の機会が訪れたんだ。わしの遠い親戚がわしらの生活を見るに見かねて、わしにある仕事を斡旋してくれたんだ。『これを機会に今までのでたらめな生活を改めろ』って言ってね。母ちゃんはその人を拝まんばかりにありがたがって大喜びしちゃって、それまでわしを汚物みたいにさげすんでいたのに、突然わしにとりすがってきて、真面目に生きてくれって頼み出すんだ。『これを逃したらもう二度と誰もあんたを救っちゃくれないよ』って。もちろんわしにだって予感があって、『この機会を逃したら一生ダメな人間になってしまう』って思ったからそれを潮に真面目になろうと決意したよ。仕事は別に難しいもんじゃなかった。ただ一人暮らしのじいさん家に行って、掃除をするだけさ。毎朝決まった時間に行って、そんなにも大きくないじいさんの家を掃除するんだ。そのじいさんはいつも同じ部屋の同じ場所で肘掛け椅子に黙って座っていて、わしが部屋に入るとふさふさした眉毛の下からじっとこっちを見るんだ。その部屋はいつも散らかってて嫌な匂いがしていたな。そしてどういうわけか、毎朝行ってみると泥棒に入られたみたいに部屋がひっくり返っているんだ。それも大地震の後か大人数人が暴れまわった後のような荒れかたなんだ。けどじいさんは、イスの上で生活しているみたいに、いっこうに動いた気配がない。それにじいさん自身病弱そうで湯飲みすら持てなさそうなんだ。『これはじいさんがやったのか?』って何度か訊ねてみたが、じいさんはじっとこっちを観察するように見てるだけで返事もしない。気味の悪いじいさんだったな。それでも毎朝行って、全部もとどおりになるまでかたづけてたよ。何度かじいさんに『何を食ってんだ?』とか『家族はいないのか?』とか話しかけてみたけどまったく応えないんで、少しずつ慣れてくるとじいさんの存在を忘れて、一人で掃除してるみたいな気分になっていったな…。そして始めの数週間は意味もわからず一生懸命やってたけど毎日毎日わざとみたいに散らかってる部屋をかたづけてると、嫌気がさしてきてね、一ヶ月くらいたつともう行かなくなったんだ。はじめの決意もどこかに消えてしまって、なんだか馬鹿らしくなってきてね。いやがらせか、バカにしてるんだと思ったよ。だから毎朝自転車に乗って出かけるんだが、じいさん家につづく人通りのない並木道にくると、日暮れまでそこで寝転がってたんだ。数日もすると母ちゃんにばれて、抱きつかれたり泣きつかれたりして何とか仕事に戻ってくれと、とりすがってきたんだけどもうだめだったな。なんだかんだ言い訳を見つけていかなくなり、あげくのはてにはまた酒にも手を出してしまった。すると、ばちがあたったんだろう、息子が原因不明の高熱にうなされだしたんだ。もちろん医者に見せる金なんかないし、あったってわしが飲み代につかった。息子が真っ赤な顔してうんうんうなっている横でわしは黙って酒を飲んでたんだ。愛想つかした母ちゃんはわしに呪いの言葉をかけながら息子の看病をしていた。そしてわしは息子の苦しむ姿をわざと視界の端に入れながら飲んでたんだ。まるで息子を視界から外しながら酒を飲むのが悪いことかのようにね。その頃にはもうわしは悪魔に魂を渡したような気分で酒を飲んでたんだ。心の中で『なにもかも滅んじまえばいいんだ!』って叫びながら。でもどういうわけか、ぎりぎりの一番奥のところで自分でも信じられないようなことを信じてたんだ、『まだいつでもわしは良心を取り戻して仕事に戻ることができる。この手にもったコップを放して、体を起こして、自転車にまたがれば、そうすれば息子の治療費を稼いでくることができる』って。言い訳か信仰かそれはわからんよ。でも暗闇の中、遠くに見える小さな光のように、幻じゃあなく、確実にそれを見ていたんだ。そしてそれだけを頼りにしていた気がする。それで…それでわしはどうしたと思う?」
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木鳥 建欠
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