第45回
駅長は、ハエに聞こえないくらいの大きさでうめき声をあげた。 「なんですか?なにか言いましたか?」 「…好きな花はボタン。好きな食べ物は肉詰めのパイ。好きな季節は冬。好きな体位は正常位…。」 「どうかしたんですか?」ハエが驚いて大声をあげた。 「もう帰ってくれませんか?」 「よっぽど嫌われたみたいですね。まあいいでしょう。まだ話したいことや聞きたいことがあるんですが。例えば言葉と真実の関係とか…。あなたは、言葉で真実にたどり着くことができると思いますか?それとも、真実自体が言葉で作り出されたまやかしものだと言われたらどうします?だって人間って真実がことのほか好きでしょう。それがなかったら溺れでもするかのようにすがってるじゃないですか。ねえ、あなたも真実が好きなんでしょう?」 駅長は答えずに、両手で顔を覆った。するとまたもや静けさが部屋を埋めた。しかしハエはまた黙って向かいにいるにちがいない。今度は駅長も我慢強く待った。両手を顔から放さずにゆっくりと呼吸した。鼻と手の隙間から、かさかさに乾いた呼吸が通り抜けていくのが聞こえた。あたりの様子をうかがってみたが、ハエはかさりとも物音を立てない。数分間もそのままの状態でいると、不思議と駅長はまどろみ始めた。まくらと脳が溶け合うような心地良さのなか、久しぶりに眠れそうな気がした。呼吸が深く安定し、悲しげにさまよう象があたまの奥のほうに現れた。…象、甘やかされた象、近づく危険に気付かない象、禿げた大地に残るやせた草をむしり食べる象。象はやがて草原に沈んでいく。鼻を高く上げ、両足を大地に踏みとどまらせようとするが、体は傾きながら沈んでいく。やがて鼻の先だけ大地に残して、大きな体は飲み込まれてしまった。そこから苦しそうに息をついでいるのが聞こえてくる…。そして唐突にハエが沈黙をやぶった。 「今日は引き上げるとしましょう。お疲れのようですからね。また近いうちにきます。…そうそう、明日はきっと騒がしい一日になりますよ。ほら、外を見てください。」 駅長は驚いてハエを見つめた。そして両手を顔から放した。外は知らぬ間に雲に覆われており、この地方では珍しい雨が音を立てないように降っていた。 「雨が降ってますよ。それにあのにおいもぷんぷんするし。わかるんですよ。我々には。では退散するとしましょうか。ときにすいませんが、窓を開けてもらえますかね?」 駅長は大儀そうにベッドから起き上がり、窓を少しだけ開けた。 「それでは失礼。」 小さな隙間からハエが器用にすり抜けていった。ハエは雨にさからうように、灰色の空に向かってまっすぐ飛んでいった。窓からは湿った空気がすべり込んできた。駅長はもう一度布団にもぐりこんだが、もう眠気は感じられなかった。
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木鳥 建欠
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