第43回
ここでハエは、相手の様子を探るように一拍おき、天井から横の壁に飛び移った。 「そして反対に別のある場所で、あるちいさな動物園で育てられていた象がいましたが、いろんな理由からもとの野生に戻してやることに決まり、この象がある原野に返されてしまったのです。これなんかは人間によくある感傷癖でしょう?勝手に連れてきておいて突然『こんなちいさな檻の中に閉じ込めておくなんて気の毒だ!象は本来広大な草原で生きていくべきなんだ!』なんて言ってしまうんですから。この気の毒な象も同じでした。突然勝手な理由で見知らぬ土地に放り出されてしまったんです(もちろんこの際この人間たちの良心は痛みませんよ)。しかし幼い頃からぬくぬくと人間に育てられてきたこの象は突然の環境の変化に戸惑い、厳しい大自然の真っ只中に取り残され、悲しげに泣き声をあげることしかできません。実際その象は、自分で何を食べたらよいのかすらわからない状態だったのです。そしてそこをまったくの偶然にあの男、いままでの生活を捨てて象を見にきたあの男が通りかかったのです。男は草原から草原へと渡り歩きつづけ、疲れきっていました。すると突然目の前に念願の象が現れたのです。男は自分の目を疑いました。夢にまで見た野生の象がそこに、すぐそばに立っているのです。象は自分の長い鼻をもてあまし、持ち上げてみたり巻いてみたりしています。平たい耳をばたつかせ、大きな頭を左右にゆらゆらと揺らしています。男は狂喜しました。こういう人間にはえてして感激家が多いものですが、この男も例外ではありません。この地に射す強い日差しの中、干からびるくらい照らされつづけてきたのに、今この男の両目から大粒の熱い涙が湧きあがってきたのです。男は目の前に、この広大な原生の大地を歩きつづけ生き延びてきた象を見ていると思い込んでしまったのでした…。」 ハエはいったん話を区切り終えると、効果をねらう演説者のように体ごとさらに駅長に近づき、低い声でささやくように話をつづけた。 「男はこの動物園の象を見て、今までの苦労が報われたと思ったのです。感激して心を震わせ涙を絞りだしたのです。どうです?おもしろい話でしょう?この夢見る人物にとってこの象はまぎれもない本物の野生の象だったんです。もし仮にこの男が本物の野生の象を見たとしたら、どうなると思います?おそらく彼は内面に同じような感激を味わったことでしょう。対象がどうであれ彼の心にわき起こった満足と感動と圧倒的な自然を目の当たりにしたときに起こる高潔な心の震えの方が、はるかに重要な問題なのです。とすると、いわゆる『真実』とかいうものは特に必要なかったわけです。さしあたり彼のまわりには誰もこの真実を教えてくれる人もいないわけだし、『勘違い』も真実と同じくらいの効果があったのです。」
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木鳥 建欠
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