第42回
駅長は黙り込み、目をかたく閉じた。 「例えば、好きな花の名前とか?」 駅長は目を閉じたまま返事を返さなかった。 「じゃあ好きな食べ物は?」 駅長はやはり返事をしなかった。 「それじゃあ好きな季節?」 駅長はぶつぶつとなにやらつぶやきながら寝返りをうった。駅長の耳に、ハエが飛び上がり、駅長の顔のすぐそばまで近寄ってきたのが聞こえてきた。 「困ったな。好きな体位とかはどうです?」 駅長は苛立たしげに肩を揺すった。ハエは飛び上がったが、すぐまた着地した。そして少し間をおいてからまた訊ねた。 「じゃあ、好きな動物は?」 「ゾウ。」駅長はさそわれるようにつぶやいた。 「象!」ハエはうれしそうに繰り返した。「象ですか。ぴったりですよ。象を好きな人はだいたいひとりよがりで思慮に欠ける人が多いんです。おや、失礼しました。気を悪くしないでくださいよ。悪気はないんだから。ところで象のどこに惹かれるんです?大きな体ですか?それとも長くて特徴的な鼻ですか?それともあの慈悲深そうな濡れた目ですか?」 駅長は壁の方を向いたまま、かたまったように答えなかった。 「どういうわけか、犯罪にはしる人や心に罪悪感を抱く人たちはえてして象に慰められるんですよ。知ってましたか?刑務所や精神病棟で象にまつわる本をそろえたり象の映像などを定期的に流したりすると、そこの住人の心が安定したりしてくるらしいんですよ。我々にとっちゃあそういう感傷癖は理解の及ばないところですけどね。そうだ、象にまつわる面白い話をひとつ聞かせてあげましょう。これはなかなか興味深い話ですよ。人間の奇妙さについて考えさせる、という点では絶好の話になります。時間は取らせませんので、聞いててください。」 こう言うとハエは駅長の顔から離れ、真上の天井にはりついた。 「ここにある中年の男性の方がいたのですが、彼の年来の夢は広大な草原で野生の象を見ることだったのです。それも動物園などにいる人工的に連れてこられたものじゃあなく、ただっぴろい草原をのし歩いているやつが見たかったのです。けど残念なことに彼はそんな原生の地に行く機会にすら恵まれなかった。しかし人生の折り返し地点を過ぎたあたりで突然彼はある恐怖にとらわれ、このまま自分の夢を達成せずに生きていくかも知れない、と心配になったのです。自分の人生が息苦しく感じられてきたのです。『本物の象を見ないで、いったいどんな人生が残されているんだ?』そうなんどもつぶやいたそうなんです。そうなるともういても立ってもいられなくなり、すべての生活を放り出してそんな原野に出発したのでした。このまま象を見ずに暮らしていく無意味さに彼は気付いたのでしょう。彼は象をもとめ原生の草原をさまよい歩きました。この人は、雄大な草原の景色の中、泰然とのし歩く象をそれこそむさぼるように想像し、夢の中にまでもそれを追い求めたのです。」
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木鳥 建欠
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