第211回
焦る聴衆の怒号と罵声が飛び交う中、雨が降り出した。しかし誰ひとりとしてその場から去ろうとする者はいなかった。皆夢中になってうそつきを木の上から飛び降りさせようとがんばっていた。反対にうそつきは言葉をつくして聴衆の説得を試みたが、効果はまったくなかった。聴衆はうそつきが話そうとするたびに、あおられた炎のようにさらに激しく、枝の上になすすべもなく立ち尽くすうそつきを追求した。 雨の中ひとりだけ我に返ったのは駅長だった。駅長もまわりの興奮にのまれて事の顛末を追っていたのだが、雨に打たれることで、今日自分が死ぬ予定だったことを思い出したのだった。実際駅長は、このうそつきの行動に尋常ならざる興奮を覚えていた。もしかすると奇跡の現場に立ち会えるのかもしれない、という期待が駅長をその場に釘付けにしたのであった。なぜそのときそんなにも奇跡を欲したのかはわからなかった。目前に迫った死期がそうさせたのかもしれない。いずれにしても、駅長は奇跡に対する期待感で胸がいっぱいになり、熱病にうなされたようにうそつきの一挙手一投足を見守っていた。しかし駅長はほかの聴衆と同じようにうそつきを追いつめようとはしなかった。どういうわけか、駅長はいざこざの末にうそつきが飛び降りる事を前もって予見し、またそれが無事に終わる、ということも確信に近いかたちで信じていた。そしてまだ起こらぬ奇跡に対して駅長は深い興奮を覚えていたのであった。 雨に打たれて我に返った駅長は、まだ冷めやらぬ興奮を感じながら、うそつきを中心に集まった聴衆の輪から離れた。輪から離れるにしたがって雨脚は速くなったが、聴衆は一個の意志を持った生き物のように、うそつきを木の上から飛び降ろすために執拗に攻め続けた。駅長がずぶぬれになって自分の薄暗い部屋に戻った時もまだ外からうそつきに向けられた罵声が、建物の中にまで聞こえてきていた。駅長は濡れた服を着替えることもせず、寝台に腰かけたまま外の様子に聞き入っていた。しばらくすると沈黙がおとずれた。外では誰も何も叫んでいない様子だった。ただ雨がしたたる音だけしか聞こえてこなかった。そして数分間沈黙がつづいた後、『おお!』という地鳴りのような歓声が聞こえてきた。その歓声につられて、駅長は外の様子をうかがおうと立ち上がり、窓の方へ歩き出した時、ある声が部屋の中から聞こえてきた。 「飛び降りたんですよ。」
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木鳥 建欠
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