第17回
以来この部屋から聞こえてくる話し声にはいつも狐の鳴き声が混ざっており、その住人が死ぬときには決まって狐の匂いが漂っている。駅長自身、この部屋の住人が変わるのを五回見届けたが、そのつど斜め向かいの部屋から禽獣独特の胸につかえる匂いを嗅いだ。さらに駅長は、前回の住人が死ぬ直前に、「窓から毎日のように狐が訪ねて来るのが見える」と訴えていたということを、向かいに住んでいる坊主から聞いたこともあった。 その部屋に、今歩いている黒いコートの男は向かっている。コートの男はよほど弱っているらしく、なかなか建物にたどり着かない。両側の付き添いがしきりに励ましている。しかしとうとう男はしゃがみこんでしまった。だが、付き添いのもの達も無理やり先を進もうとはせず、おなじように座り込んで気持良さそうに陽光を浴び始めた。確かに気負いこむにはやわらかすぎる天気だった。男は自由になった両腕をほぐすようにゆっくりと動かし、あたりにある芝生を撫で始めた。露はまだ乾いていない。緑の芝生がところどころ陽光に小さく反射する。三人とも濡れるのも気にしていない。男は濡れた手を顔にごしごしと押し付けた。 その時部屋のドアが開き、坊主が丸い頭をつるつると撫でながら入ってきた。動作が緩慢なのでからくり人形のように見える。何か見えるか、と訊ねてきたので、駅長は新しい入居者の到来を告げた。 「そういえば、向かいがまだ空いていたな。」 坊主は言いながら駅長の横に立ち、新しい入居者を探した。 「あれは何をしてるんだ?」 座っている男を見つけた坊主は、不思議そうな顔をして訊ねた。男はまだ座りながら顔をごしごしやっている。駅長がわからんと答えると、坊主はまた熱心に男を観察しだした。男は顔から手を放すとまた芝生を撫で、撫でるとまた顔をこすりだす。顔でも洗ってるつもりなのかしら、と坊主が言うと、両側の付き添いがまた立ち上がり、男を立たせ再び歩き出した。 「なんだあれは?自分で歩けんのかな?」 おそらくそうだろう、と駅長が答えると、坊主は気の毒そうな顔をした。男はしばらく歩むとまた立ち止まる。付き添い達は両側で励ます。男は寄り添うように歩き出す。両足は棒のように柔軟性に欠けている。 「あれじゃあ狐にやられる前に、くたばりそうだな。」 坊主はしわの多い額にさらにしわを増やして、困ったといわんばかりに頭を撫でた。まるで楽しみにしていた見世物を見損なったような風だった。 「もっとも、もうすでに狐にやられてるとも考えられるがね。」 坊主は皮肉げに言った。駅長はなるほど、と答えた。三人連れはようやく建物にたどり着こうとしている。黒いコートの男は、今度は建物を眺めるために立ち止まっている。あごを上げ、口を半ば開けながら圧倒されたようにながめている。髪は白く、頬はこけている。そして両側の付き添いに何か話し掛ける。付き添い人たちは、お互いに目配せしあって秘密めかしく笑っている。男は気にせずに話しつづける。
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木鳥 建欠
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