第124回
「たすけてくれ…。」 王は自分の耳をうたがった。この海原の真ん中で自分以外の人間の声があるはずがない。ではいま自分の耳が聞いたものはなんだったのか?するとまた壁をたたく音がした。それは濡れた手で濡れた壁をたたく音だ。自分が幻聴を聞いているのでなければもう間違いはない。なぜこんなところに人間が?もしかするともう陸の近くまできているのかもしれない…。小さな花がまだ離れているがたしかに近づいてきている春の到来を予告するように、渡り鳥の第一陣が寒い冬を告げるように、この流されてきた人間はたしかに近寄っている陸地を示しているのかもしれない。砂漠で飢えた人間が小さな手がかりも大きな希望に変えてしまうように、王は心をときめかせた。王は急いで天井の上にのぼっていった。慎重に横ばいになって四方に目をこらしてみたが、そこはやはり見わたす限りの海でしかなかった。いままで見てきたものとまったく同じ海がそこに広がっている。どこにも王の期待した陸地はなかった。そして次に、そこにほんとうに人がいるのか、海の真ん中で遭難している人間がいて、この海原に浮かんでいる部屋にたすけを求めているのかたしかめる必要があった。王が体を乗り出して海面に顔を出してみると、はたしてそこには顔じゅうひげだらけで濡れた長い髪を肩までたらし、懸命に水面から顔を出そうと両手両足をいそがしそうに動かしている男がいた。しかし男の必死の努力によりやっとのことで海面から出した顔は、いともたやすく上からかぶさってくる波に飲み込まれてしまう。飲み込まれると男は体中を震わせ、海面を両手でたたき、またほんの少しのあいだだけ顔を出す。出しているあいだに吸えるだけの空気を吸い込み、また波に飲まれていく。その報われない努力を見ているだけで、傍観者も息苦しくなってくる。たしかに人間はいた。しかし陸地はなかった。王の失望は大きかった。 「何か用か?」王は海面に向かって尋ねた。 「たすけてくれ!」男は刹那的に浮かび上がってくるとき、空気を吸うのを犠牲にして大声を出した。そして叫ぶと同時に海水を飲み込んでしまい、苦しそうに息をついだ。
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木鳥 建欠
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