第123回
それは、もうどれくらいの時間がたったのか王にも見当がつかないくらい海の上で月日がながれたある日起こった。その日、雲は低く強い風が吹き、波の飛沫が天井にあいた穴から入り込んでくるような、気の滅入るいちにちだった。前日に精力的に働いた王は、天候の悪いこの日を体を休める日にあて、ながながと寝床に寝そべって、またバターを相手にいろんな話に興じていた。それはむかし王がまだ王であったとき経験した、旅の芸人に恋をした時の話だった。この旅の芸人たちがどのようにして宮殿に招かれ、どのようにして小柄な男が象を背負ったり、ライオンよりも高く飛び跳ねたり、三十分以上も水に潜ったりしていろんな芸人たちが王の前で芸を披露し、そのうちのひとりの娘がどのようにして美しい舞を踊り、王を魅了したかを話しているとき、部屋を外からたたく音が聞こえた。 「何だ、いまの音は?」 王は全身を硬直させて起き上がった。バターも驚いて部屋を落ちつきなく歩き回った。用心深く耳をすませると、風が空気を裂く音と波が壁にぶつかる音しか聞こえてこない。聞き間違いだったのだろうか?またゆっくりと体を寝床に横たえて、話をつづけた。 「どこまで話したっけ?そう、その娘は不思議な踊りを踊っておったな。うすくて長い布を体中にまとい、細い帯をその上からやわらかく巻きつけて浮遊するようにゆらゆら、ゆらゆら踊っておったんだ。その娘が舞って袖が空気を撫でるようにたなびくと、わしの体も舞ってしまいそうな好い匂いをが漂ってきて、なんだか夢のなかで見ているような心地だった…。」 そのときまた、しかし今度ははっきりと壁をたたく音が聞こえた。誰かが緊急の用事でもあるかのようなたたき方だった。しかし外は見わたす限りの荒波で、この部屋まで急用があって訊ねてくるような場所ではない。しかしたしかに人間がたたいているように聞こえるのだ。王はまたすばやく起き上がって、耳をすませた。 「聞こえたか?」王が尋ねた。 バターは羽の切られた翼を広げ、騒がしく鳴きはじめた。 「しっ!」王は指を唇にあててバターを制した。 バターはその合図でぴたりと止まり、王と同じように耳をすました。風の音と波の砕ける音とのあいだに、なにかこするような音がたしかに聞こえてくる。王は緊張してその音源をさがした。魚だろうか?イルカやクジラならたまに部屋の横を泳ぎすぎるとき、たわむれてか威嚇のためか部屋に体をこすりつけてくることがあった。しかしイルカがわしに用事があるとは思えんしな。よしんばあったとしてもヒレを器用に使って部屋の壁をたたくとはもっと考えにくい。では何事が起こっているのだ?王は音がしている壁の下のほうに警戒しながら耳を近づけていった。何かが壁を引っかいている音が聞こえてきた。そしてその音の奥からもう王が忘れかけていた、人間の声がたしかに聞こえてきた。
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木鳥 建欠
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