第107回
それは王がまだ幼かったころ、濃く生い茂る森のなかの大きな湖で出会った若い女の思い出だった。その森のなかにある湖は、暑い季節にはいつも避暑地として使われていた王家の別荘の近くにあった。むかしから妙な魔物が出るとうわさされ近隣に住む者たちからは恐れられていた場所なのだが、まだ幼かった王は好奇心にかられてよく別荘をぬけ出して、ひとりそこまで遊びにいったものだった。湖は水際まで木が繁っており、水の縁まできても大きな枝が傘のように湖面まではりだしていて薄暗く、小さなさざ波が木に砕ける音がいつも不気味にこだましていた。この湖は夜になると水位が下がり、夜明けとともに水かさが増えるところから、湖に住む大量の魔物たちが夜のうちに水から這い出して活動し、太陽が昇るのと同時に湖に帰ってくるので水位が上下するのだ、とうわさされていた。さらに夜になって森に足を踏み入れたものはよく行方不明になったのだが、それは暗い森のなかで彼らの大半が目測をあやまって道を失い、水位の下がった場所にすいこまれるように迷い込んで、細くからまり合う木の根に足をはさんで、そのまま抜くことができなくなって夜明けとともに水没したからであった。近隣の言い伝えでは、昼間それらの死体が水中深く沈むときは、あたりに自生する藻のようにゆらゆらと揺れているのだが、夜になってあたりから水が引けると彼らはみなむっくりと起き上がって、自分たちの足にからまる木の根から逃れようと嘆きの声をだしてもがくのだそうだ。そしてそのもがく人たちの中には、何百年も前に森で迷った人間も沈んだ当時と同じ格好で(腐敗もなく)毎夜苦しみの声を出しているらしい。 太古の昔からの人間をそのままの状態で飲み込んでしまうところから、この湖は「記憶の湖」と呼ばれていた。この「記憶の湖」に、ひとりだけ決して道を失うことなく深夜近づき、みずから足を捕られることなく、これらの木に足をはさまれた不幸な人たちと接することができ、また無事に戻ってくることができる老人がいた。誰もこの老人がどこに住み、どういう素性のものなのか知るものはいなかった。たまに物乞いをするため民家をたずねることがあっても、このあたまがはげあがり長いひげをたくわえた老人は、ゆいいつこの不思議な湖の世界と行き来できる者として、畏敬の念を持って迎えられていた。そしてこの老人と幼い王はある暑い昼さがり、記憶の湖の水際で出会った。王はその日、湖面にかぶさるように伸びた大きな木の枝にまたがり、湖から吹く風に涼をとっていた。風は鳥や獣の鳴き声をのせて王の体を吹きぬけていき、背後からは波の砕ける小さな音が響いていた。王自身、この湖にまつわるおそろしい話を何度も聞かされていたが、怖がることなく、枝にまたがりながらすぐ下に揺れる水面を息をのんでながめていた。しかしいくら目をこらしても、濃くにごった水は、その中で藻のように揺れているであろうたくさんの人間を見せてはくれなかった。それでも水面下の情景を想像するだけで、王ははげしい興味をそそられるのであった。
0 Comments
Leave a Reply. |
木鳥 建欠
|