第106回
体から汗がしみ出さなくなった数日後、王は死を覚悟した。意識は途切れがちになり、夢の世界との区別がなくなってきて起きているのか眠っているのかもわからなくなりだした。もう少しましな人生があったのかもしれないな。王はちらりと考えた。だが、『ましな人生』とはどういったものなのか考えてみる間もなく、そんなことを考えたことじたいすぐに忘れてしまった。またたまに無意識のうちに、かさかさに乾いた手や足を海水で湿った部屋の壁になすりつけたりすることがあった。そうしたときはたいてい、川面や深海で徘徊しているとき、突然水が干上がってしまって身動きが取れなくなっている夢を見ているときであった。夢のなかで水はものすごい勢いで乾いていき、地面にはヒビが入り、自分は力なく乾いた空気に溺れているのであった。 その時王はふと部屋の真ん中にあるコルクの事を思い出した。まだなんとか体を動かせれるときにこの栓を抜いてしまえばどうだろう?からからに干上がって死んでしまうのと、水に溺れて死ぬのとどちらがましだろうか?からからに体が乾いている王は、すぐに水にまみれて死ぬことを決断した。水で死ぬのはまだ愉快なのではないか、とも考えた。塩気が含まれていようと、水分であるということが王を誘惑したのだ。王は寝台から転がり落ち、トカゲのように床を這い、コルクの栓につかまった。が、悲しいかな栓は衰弱した王の力をもってしてはびくともしなかった。栓はしっかりと詰められており、王の全力でもってしても抜ける気配はない。王は栓に呪いの言葉をなげかけながら奮闘した。チクショウ!バカな設計者らめ!これをわしに抜かせるのを目的としているのならなぜもっと軽く差し込んでおかんのだ?どうしようもないばか者らめ!王はじだんだ踏んでくやしがった。水に溺れて死ぬことを歓びとともに思いえがいていた王は、死ぬまで水に触れられないかもしれない可能性に身震いした。どうしてすこしもわしの思うようにことが運ばんのだ?どうしてすこしでも楽に死なせてももらえんのだ?そしてヒステリックに混乱した王は、猫をかむ前の追いつめられたネズミのように前後のみさかいがなくなり栓に向かって飛びついた。すると今度は何の抵抗もなしにコルクが差し込まれていた穴から抜け出た。 肩すかしをくらったような感じになった王は、しばらくぼう然と床の穴からあふれでる水を見ていた。水は思ったよりもゆっくりとしか流れ込んでこない。いっきにこの部屋を沈めるには穴が小さすぎるのだ。それでも王は長い間水不足に悩まされていたので、床から際限もなくわき出る水を喜んで迎えいれた。一度不覚にも海水を口にふくんでしまい、あまりの塩辛さに吐き出してしまったが(そしてその結果王の渇きは倍増してしまったが)、体を床に横たえ、徐々に体をひたしてくるこの水を楽しんだ。もうどうせすぐにも死んでしまうのだ。王はこうつぶやいて口の渇きをがまんし、暑くて干からびかけていた体を冷えた海水に浸して、皮膚の潤っていくのを喜びとともに感じていた。目を閉じていつものように魚になる夢を見た。この日はいつにもまして元気よく水の中を泳いでいた。もう水が干からびる心配もない。やがて王の体は床から離れ、部屋に氾濫しだした水に浮かびだした。ちからなくゆらゆらと部屋のなかで浮かんでいると、遠いむかしのことが思い出された。
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木鳥 建欠
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