第194回
「そして私たちは夜中人目につかないよう町の外れまで行ったんだ。すると彼があたしにナイフを渡しながらこう言った。」瓜実顔の老婆は中空を見つめながら、懐かしむように言った。「『お前から先にこの心臓を刺せ。いいか、はずすんじゃないぞ。そしたらそのナイフを抜いて俺に渡すんだ。それで今度は俺がお前の心臓を…。』あたしはもう無我夢中だった!そのナイフを握り締めて、世の中を呪いながら、彼の胸を突き刺したんだ!けどあたしはそれをもう引き抜く事はできなかった。怖かったんだ。彼はよろめきながら自分の心臓に刺さったナイフを自分で抜いてそれをあたしめがけて突き刺そうとしたんだ。あたしは目をつぶって覚悟しながら待ちうけていたんだけど、彼はよろめいた足でけつまづいてここんところを刺してしまったのさ…。そして彼はそのまま死んでしまったよ。反対にあたしは刺されてから気を失ってて、翌日通りかかった人に…。」 「よくそんなでたらめが言えたもんだな!」白髪の男が言った。 「でたらめなもんか!あんたなんかにこの悲しみがわかってたまるもんか。」 「どうせそんな傷どこかで転んだときにできたんだろう?」 「あんたみたいに軽薄な人生を送ってきたやつには、人の不幸なんてわかりゃしないよ!」 「そんなの不幸でもなんでもないよ。」白髪の男がやり返した。「おれなんか戦争中捕虜になって拷問を受けたことがあるんだからな。」 だから不幸を比べるなんていうことは、例えば二つの色を見比べてどちらがきれいか、と答えを見つけようとするくらいあいまいなことと言えるだろう。それからもうひとつ、と相談員は続けた。『幸福になる』ということは、例えば『政治家になる』とか『お嫁さんになる』とかいったように使える言葉ではない。『いつから政治家になることをやめたか?』と質問することはできるが、『いつから幸福になることをやめたか?』という質問は発しにくい。つまり『幸福になる』とは自分で宣言することはできない。では幸福に『なる』とはどういうことになるのか?具体的に助言することはできないが、最低限言えることは、いくつかの条件を満たせば自動的になれる、といった類のものではない、ということだろう。だから就職するような気持ちで幸福を求めてはならない…。
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第193回
少年は幾度となく両親に自分の不幸を訴えてきたが、その答えが決まって『お前よりも不幸な人間は世の中にゴマンといる。お前は自分の幸せに気づいていないだけだ』というものだった。しかし少年はどうしても自分以上の不幸が想像する事もできず、釈然としないまま暮らしてきたという。『自分の不幸はこれからも続くのか?そしてどうすれば自分は幸福に暮らせるようになるのか?』と少年はラジオを通して切実に訴えていた。 「坊主さん、」白髪の男が大声を出して呼びかけた。「坊主さんからもこの婆さんに言ってやってくれないか?この人の不幸はしょせん小さな子供とおんなじだって。」 「誰だって、神を信じないものが不幸なんだ。」うそつきが突然話に加わってきた。 「なんだって?」白髪の男が答えた。「突然そんな事言って、あんた気でもちがったのか?ハ、ハ。おかしなやつだ。そんなことを真剣に言うあんたこそ本当の不幸だよ!」 相談員は少年の質問に答えて言った。曰く、少年が言うように、不幸はもともと他人と比べられるものではない。少年の両親が、少年よりも不幸な人間がたくさんいる、と言っても誰もが納得する明確な比較の基準はない。だが同時に、戦争で両親を殺され泣いている子供と、事故で骨を折って泣いている子供は明らかにその不幸に差があると言えよう。しかしだからと言って骨を折って泣いている子供を、戦争で両親を殺されたもっと不幸な子供がいる、といってあやすのはどだい無理がある。不幸は比べるものではもともとない。他人の不幸を見てなぐさめを受けるのは、道徳的に間違っている。反対に自分よりも幸せなものを見て、自分の不幸を実感するのも同じくらい間違っている。何が間違っているのかうまく説明はできないが、他人の不幸や幸福をみて自分の不幸を実感するのは心の醜い人間のすることである。 「どうして私の不幸がこんな子供の不幸と一緒なんだい?」瓜実顔の老婆が白髪の男に食いついた。「私がどんな苦労を乗り越えてきたか知らないくせに。」 「あんたにも苦労なんてものがあるのか?」 「これを見てみな!」瓜実顔の老婆は上着をまくりあげて自分のヘソの辺りを指差した。「この傷が見えるかい?ここさ、ほら、ここのところ…。」 「それがどうした?」 「この傷はね、むかしあたしが若いころ、ある男と心中しようとした時にできたものなのさ。彼はけっこう大きな商人の一人息子でね、若気のいたりで商売のためにって預かった金をあたしのために全部つぎ込んじまって、勘当になったんだ。羽振りがよかったときはみんな彼におべんちゃら使ってたのに、勘当されたとわかると手のひらを返したようにみんな冷たくなって、誰も彼を助けてくれなかったんだ。それであたしたち二人とももうどこにも行くところがなくなって、ある夜二人で逃げ出して人知れず心中しようってことにしたのさ…。」 「どっかで聞いた事のあるような話だな。」 第192回
このときうそつきが部屋に入ってきた。坊主はむっつりと口をつぐんだ。うそつきはなにか話したいことがあるようだったが、坊主の顔をうかがうようにちらちらと盗み見て、話し出せないでいた。 「駅長さん、」坊主はそれには気づかないふりをして駅長に尋ねた。「今日はあんたの最後の日になるが、何かやり残したことでもあるか?」 駅長が何もない、と答えると坊主は少し思案して提案した。 「もし何にもないなら最後にラジオでも聴きに行こう。」 駅長には特に拒否する理由も見つからなかったので、坊主の提案に従った。二人がそろって部屋をでると、うそつきも後ろからついてきた。後ろで歩きながらやはり何か話したそうなそぶりを見せていた。 三人が娯楽室に入ると、十人くらいの住人はすでに集まっており、それぞれお互いに話しながらラジオの番組に聞き入っていた。駅長と坊主が皆の邪魔にならないよう部屋の隅に座ると、うそつきも近くに腰をおろした。 「今日は何の話をしてるんだ?」坊主が誰にともなく質問を投げかけた。 「幸福についてさ。」瓜実顔の老婆が答えた。「ある男の子が『僕は世界でも一番の不幸者です。どうしたら幸せになれるんですか?』って質問してきたんだよ。あきれた子だよ、まったく!この子が言うには、学校で他の子たちと遊んでいても決まって自分だけ先生に怒られるし、好きな女の子の前ではドジをふむし、このあいだは両親にねだってねだってやっともらったおこづかいをどこかで落っことしたんだってさ!」 「あと自慢の皮のクツも腹のへった野良犬に食いちぎられたんだってよ!要するに間抜けなやつなんだ、こいつは。ク、ク、ク。」白髪の男が目じりに涙をためながら言った。 少年の訴えは続いた。白いシャツを着た日には、必ず雨が降って泥がつくし、たまにしか出ない好物のおやつに小さな虫が付着しているし、またお金があるときにかぎってほしいものは売り切れていた。もちろんこれらこまごまとした事件が、少年をして『世界一不幸』と言わしめているのではなかった。最近少年はほんの小さいころからの友達の信頼を失ってしまったのだ。少年は、この友達が少年だけに打ち明けた、父親が実は人殺しをしたことがある、という決して誰にももらしてはいけない事実を、ほんの些細な出来心から他の子供に教えてしまい、他の子供たちに知れ渡ってしまったのだった。この友達は少年を難詰し、とうとう口を聞いてくれなくなったそうだ。『本当に悪気があったわけじゃないんです。』少年はラジオで何度も釈明をした。 「なんだ、結局自業自得なんじゃないか!」坊主はあきれたように言った。 「かわいそうにねえ。本当にかわいそうに。」眼鏡をかけた小さな老婆が、少年に同情しながら言った。「この子が悪いんじゃないんだ。この子が悪いんじゃあないんだよ。」 「何がかわいそうなもんか!こんな生意気なガキ、皮のクツと一緒に足も食われちまえばよかったんだ!」白髪の男が感情的になって言った。「だいたい皮のクツと白いシャツが着れるガキのどこが不幸なんだ?」 「そうさ、」瓜実顔の老婆が同調した。「あたしの方がよっぽど不幸な人生を歩んできたよ。」 「ヘ、ヘ。あんたもこのガキとそうたいして変わらんと思うけどね。」白髪の男が挑発的に言った。 第191回
部屋に戻ると、駅長は窓の外を見た。木が風に揺れ、鳥が軽やかに舞っていた。少し朝の風が駅長には冷たかったが、駅長は窓を閉めることもせず、空の青と地上の緑をながめていた。風邪を引いても治す心配もない。遠くをながめていると、うっすらとだが一番遠く見える山の裏から、ひとすじの煙があがっているような気がした。気のせいかしら?駅長は目をこらしてみた。確かに煙のようだ。すると本当に焼かれているのだろうか?駅長はまたため息をついた。 そのときとびらが開いて、坊主が自分の頭を陽気になでながら入ってきた。そして駅長の横に並ぶと、一緒になって景色をながめだした。 「あれは、」坊主は駅長の見ているものに気づくと、遠くを指差しながら言った。「煙じゃないか?」 おそらくそうだろう、と駅長が答えると、坊主は少し感心しながら言った。 「本当か?信じられんな。あいつらもうあんなに遠くまで運んでいったのか?しかし本当に焼く場所なんてあるのかな?わしはいままで実際に煙を見るのは初めてだぞ。あれが本当の煙なら、昨日までここにいた詩人さんは、煤になってあんなふうに飛び散ってるんだな。」 ここまで言うと坊主は駅長の顔をちらと見て、また煙の方を向いて口をつぐんだ。坊主は話題を変えた。 「駅長さん、あんたは昨日いなかったから知らないだろうが、あのうそつきのやつ、いま住人たちのあいだを立ち回って何をやってるか知ってるか?」 駅長が知らない、と答えると、坊主はあきれたように話をつづけた。 「あいつこの施設でいままでの詩人さんのようになろうとしてるんだ。詩人さんの代わりに神の教えを説いて回ってやがるんだ!その意図はわしもよくわからんが、詩人さんのできなかったことを、どうもやり遂げようとしているらしい。もちろんあいつの神と詩人さんのはちょっと違うと思うんだがな。とにかくあいつ妙に張り切っていたよ。手当たり次第に人を集めては、あいつのあの神とのなれそめの話を始めやがるんだ。目にいっぱい涙をためてだよ!そしてさいごに『神を信じろ。そうすればわしみたいに魂を救われる』ってぬかしてやがるんだ。どうだい、これは?おかしな話だろう?どうして詩人さんにできなかったことがあんなやつにできると思ったのかねえ?もちろんいまのところあいつの話に耳をかたむけるやつなんかいないよ。せいぜいからだの動かせないやつらくらいさ、おとなしく聞いているのは。だがね、」坊主は声をひそめた。「ここだけの話だが、もしかするとあいつ、詩人さんよりも信者を増やす事ができるかもしれないよ。なぜだかわかるかい?あいつと詩人さんの決定的な違いは、やつが聞き手の恐怖をあおっている事なんだ。まったくずるいやつだ!聞いている人間に、神を信じない人間はどんなひどい目にあうか、を延々と語るんだ。やつの話だと、神を信じない人間は死んだがさいご、あたまの先から足の指まで細かく刻まれるんだってさ!それももうすぐ死ぬような人間ばかりねらって話を聞かせてるんだ。」 駅長は遠くに立ち上る煙を見ながら憂鬱な気分になった。 「それからね、」坊主はまだ話をつづけたそうにそわそわとしていた。「ここだけの話だが、どうもあいつはわしがこれから毎朝、朝礼台の上に立たれるのが不満らしいんだ。詩人さんのあとにわしみたいな坊主に立たれるのが嫌らしい。あいつは自分こそがあそこに立つふさわしい人間だと思っているんだよ。これはきっとそうに違いない!きっとそうだよ。だってあいつ恥ずかしげもなくわしに『あの朝礼の役の任期はどれくらいか?』って尋ねてきたんだ。あいつはあそこから信仰のための大号令を下したいのさ!」 第190回
駅長は起き上がってみたが、昨日よりもよほど快調なようだった。そして手のひらに握っていた遺書をポケットに押し込むと、部屋を出て廊下の手すりを使わずに集会所へと移動した。そこではいままで毎朝詩人が立っていた台の上に坊主が立っていた。住人すべてが集まると坊主は台の上に立ちながら、お経を読むような調子で節をつけながら『寮生訓示四ヶ条』を暗唱した。 一つ、老いたるとも、心身の潔癖をつらぬかん 一つ、老いたるとも、礼節を守らん 一つ、老いたるとも、愛をもって行動の指針とす 一つ、老いたるとも、希望を持ち天寿を全うせん そして皆がいっせいに「おはようございます」と声を合わせてあいさつをすると、坊主の先導に従って、軽い体操運動を始めた。それからそれぞれ住人たちは食卓の席についた。坊主は駅長の横に腰を下ろすと、陽気に話しかけてきた。 「どうだい、調子は?昨日よりもよさそうじゃないか。それにしてもえらいことになってな。詩人さんが死んだんで、皆に推薦されてこれから毎朝わしが朝礼に立つことになったんだ。わしよりもっと古参のやつらもいるんだが、みんなもうろくしてるんでな。」 不思議と駅長には、ここ最近まったくなかった食欲があった。目の前に出されたいつもと同じパンも、口の中に入れると懐かしい甘みがあった。温かいお茶の渋みも口のなかにしみるように広がった。駅長は夢中ですべてを平らげた。そしてもうすっかり忘れていた満足をともなう満腹感を感じていた。明日にはもう死んでしまっているので、食べ過ぎる事による消化不良に悩まされる事もない。まわりを見回すと、相も変わらず自分の食器を哀れな声を出して泣きながら探しているものもいるし、湯飲みを持ち上げることができず、テーブルに口を近づけて震えながらすすっているものもいる。他にはパンが噛みちぎれないと不平をもらしているものもいるし、食欲がないとなんどもつぶやいて何も食べないでうつむいたきり動かないものもいる。 駅長はため息をついた。何のためのため息かはわからなかったが、無性にため息がつきたくなったのだった。昨日まではこの光景をみて、ただただ気の毒としか思えなかったのだが、今朝改めて見ているとうらやましいとも思えたのだった。駅長は、となりに座る老婆に地獄の恐ろしさを語る坊主を残して、先に自分の部屋へとまた手すりを使わないで戻った。 第189回
翌朝駅長の目覚めはすこぶるよかった。起床のチャイムがなる少し前に、鳥の鳴き声とともに目が覚めた。寝床から見える窓の外は雲ひとつない晴天で、木蓮の木の枝が昨日よりも重い桃色の花を咲かせていた。チャイムのすぐ後に廊下に虫がいっせいに飛び立つような蛍光灯の点灯する音が響くと、スリッパの床を叩く音とドアを開ける音が聞こえてきた。 「駅長さん、おはよう。」帽子が部屋に入ってきて、いつもと同じように、面倒そうに尋ねた。「元気ですか?」 駅長もいつもと同じように返事をせずに、だまったまま外を見つめていた。帽子も駅長の返事を期待もしていない様子で、むっつりと駅長の横を通り過ぎると、窓を開いた。冷たいが清涼な風がなでるように部屋にすべりこんできた。 「起きれるかい?」そう言いながら帽子は、駅長を寝床から起こすためまた駅長の寝るベッドまで戻ってきた。 帽子が駅長の毛布を取ろうとかがんだ時、ふと手を止めてテーブルの上にある、昨夜駅長が書いた遺書を見ると、ちらりと駅長の顔を見てにやりと笑った。その笑いにどんな意味が込められているのか駅長にはわからなかった。 「書いたのかい?」帽子がまた唇をゆがめて笑いながら聞いてきた。 駅長は無言でメモ用紙に書いた自分の遺書をテーブルから取り上げると、丸めて手の中に握りしめた。 「それで、」帽子は駅長の毛布をめくりながら尋ねた。「あの手紙と本は読んでみてどうだった?ひまつぶしにはなっただろう?ヒ、ヒ。どうせあんたも触発されてなにか書きたくなったんだろう?」 着替えを手伝うため近づいてきた帽子からは、すえた臭いが発せられていたので駅長は顔をそむけた。そして顔をそむけながら、紙と鉛筆を置いていったのは帽子なのかどうか聞いてみた。 「私だよ。」帽子は答えた。「なにか書きたいことがあるだろうと思ってね。」 じゃあ今度から鉛筆けずりも置いておくように、と駅長は帽子に頼んだ。帽子はおもしろくもなさそうに鼻で笑っただけだった。 「じゃあこの手紙と本は返してもらうよ。」着替えの手伝いを終えた帽子は、テーブルの上においてあった掃除婦からの手紙と小冊子を取り上げた。「私が思うに、この手紙と本はけっこう影響力があると思うんだ。特にあんたみたいな死ぬ間際の人間にはね。そんなやつらにまた読ませてやるんだ。ヘ、へ。」 駅長は今晩影と一緒に帽子も来るのかどうか尋ねたが、帽子はそれには答えず、意味ありげに目配せをして部屋を出て行った。 第188回
『お前の父親にあわせてやる』前回の背の曲がった男への訪問からまだ十日とたたないうちに、また母親はワタシに向かってこう言った。しかし今回ワタシはどうしても行きたくない、とこの訪問をことわった。母に逆らったのはこのときが初めてであったと思う。前回の訪問でワタシの足は赤くはれ上がり、まだ歩いても痛いくらいだったのだ。母はそれでもいやがるワタシの手を引くと、また寒空の下へとワタシをつれだした。しかしさいわい今回の目的地はいままでで一番ちかいところにあった。それはわれわれの住んでいた部屋から五分と歩かない距離にあったのだ。そこはおそろしく古い廃屋のある、いまはゴミ溜めとしてしか使われていないところだった。こおりのように固まったゴミをいくつも乗りこえて、母はワタシをつれて奥にある廃屋に入っていった。ここにはとびらも窓もなにもなく、冷たい風が音をたててふきぬけていた。明かりのないこの建物のなかでは母もゆっくりと慎重に歩いていた。われわれがこの廃屋をさまよっていると、ある部屋からやぶれたふくろから空気が抜けていくような、かわいた音が聞こえてきた。おそるおそるこの部屋に入ってみると、そこには毛布にくるまった男が床にあおむけで寝ころがっていた。母はこの男に向かってなにやら話しかけたが、男からはなにも返事がなかった。母はさらに近寄ると、男の耳元で大声をだした。それでも返事がなかったので、ここで母はいきなり男の毛布をはぎとってしまった。めくられた毛布からは、小さく上下するうすい男の裸の胸があらわれた。男は小さなうめき声をあげただけだった。母は舌打ちしながらこの男のからだをすみずみまで調べたが、なにも出てこないと知ると、こぶしをふりあげてののしりながら男の股間をなんどもなんども叩きだした。そしてさいごに毛布をもういちど男にかけてやると、母はワタシの手を引いて今度は大またで廃屋をあとにした。 これ以降、母はワタシに『父親にあわしてやる』と言わなくなった。言わなくなったが訪問はつづいた。母は突然ワタシのうでをとると、なにも言わずにワタシを外につれだすことにしたのだ。しかし訪問先はいつも決まっていた。大きな男の家と、背の曲がった男の家だった。行くたびに母はワタシを男たちの前に押しだして大声でわめくのだった。そして訪問の回数がかさなるにつれ、押しだされたワタシと男たちとの距離はせばまっていき、しまいにはワタシは母に抱えあげられ男たちの鼻の先までつき出されるようになった。ワタシはそのときの男たちの顔を、母よりもよくおぼえている。ワタシを男たちに突き出しながら、母も相手をののしるだけではなく、両手をあわせて涙を流すようになった。そのうち母は大きな男にも、背の曲がった男にもしたたかに殴られるようになり、それでも訪問をやめないでいると、さいごには戸口でいくら呼んでもさけんでも男たちはわれわれに顔を見せなくなってしまった。そして母は訪問しなくなった。 それからしばらくたったある夏のあつい夜、母はワタシの好物だったハチミツとレモンをお湯でといたものを出してくれた。それはなにかとくべつな機会がないとけっして飲ませてくれない飲み物だったのだ。少しの間それを飲むワタシの顔を見ていた母は突然『あ!』とさけぶと、『洗濯物を取りこむのを忘れた』と言って外に走り出し、そのままどこかに行ってしまった。以後母と会っていない。」 ここで駅長はため息をつくと、鉛筆を置いて目を閉じた。外はまだ暗かったが、もうあと少しで空が白み始める時間だった。 第187回
「『お前の父親にあわせてやる』とある日母がおさないワタシの手を引いて外につれだした。これがワタシの記憶するワタシの人生でいちばん古いできごとになる。外は雪が降っていたと思う。母の大きな歩幅に追いつかないワタシはなんども雪に足をすべらせ、そのつど母に舌打ちを打たせた。ワタシは母に舌打ちを打たせるのがとてもこわかったので、必死の思いで母の歩幅にあわせようとした。それでも歩くのがおそかったワタシは、ほとんど引きずられるようにしてその父親のところへとつれていかれた。外は暗かった。家は小さな家だった。明かりの差す家の中から出てきた男は、戸口をほとんどかくすくらい大きな男で、うしろからの明かりで顔は見えなかった。母親とその男は何か言い合っているようすだったが、男は寒い外で待っているワタシを中にむかえ入れてはくれなかった。それどころか外で待つワタシに指をさしながら大声で罵声をあびせはじめた。母は反対にワタシのあたまに手をおいて、もうひとつの手で男を指しながら大声で叫び返していた。しかししばらくすると母はその男と額を寄せあってひそひそとワタシに聞こえないように話しをしはじめた。すると男はまた大声を出しながらポケットからなにか取り出し、それを母に渡した。母はそれを受け取ると、またワタシの手を引いてわれわれの住んでいた部屋まで帰っていった。 ワタシは母の顔をほとんどおぼえていない。そびえるように背の高い母を下から見上げたとき見えるあごの下についたほくろと、その高さから吹き降ろされてくる口臭だけをおぼえている。いまもたまに母を思いだしたくなると、自分の口の臭いをにおうことにしている。それ以外、髪が長かったのか短かったのかもおぼえていない。 『お前の父親にあわせてやる』またある別の日、母は突然こう言って再びワタシを外に引っぱり出した。それは前回の訪問からひと月もたっていなかったと思う。そしてこの日も寒い日だった。しかしこの日つれて行かれた場所は、あの男の家とはちがうところだった。この家はあの大きな男の小さな家よりももっと遠くにあって、ずいぶんと長いあいだ人も家もないあぜ道を歩かなければならず、ついたときにはひざから下の足の感覚がなくなっていた。そしてこの家は、家というよりも小屋みたいなもので、大きな母が押せばたおれそうなしろものだった。母が戸をたたくとこの中から背の曲がった嫌な臭いのする男が出てきた。母はまた前回とおなじようなやり取りをこの男と大声ではじめだした。母は男の顔をにらみつけながら、大声をあげて両手でワタシの肩をなんどもゆさぶると、その両手を今度は雪のふる空を持ち上げるようにひろげて気が狂ったようにさけびだした。つづいて母はワタシを両腕のなかにくるむように抱きこむと、男に向かってひそひそと話しだした。母の話しを聞きおわると、背の曲がった男は怒りにふるえながらなんども『このあばずれめ!』とさけび、手ににぎった小銭を母の顔めがけてたたきつけた。母はなにも言いかえさず、それをおとなしく拾うと、母はまたワタシの手をとってもと来た道を戻っていった。 第186回
駅長は夕食も抜いてこの掃除婦からの手紙と、掃除婦の弟によって書かれたこの小冊子を読み続けた。幸い誰も駅長の部屋を訪ねてこなかった。この手紙を読んでみて、何よりも駅長の興味をそそったのは、詩人と掃除婦との関係や掃除婦の妊娠のきっかけなどではなく、掃除婦も影と出会っていたという事実であった。そしてどうやら帽子もこの影と関係があるらしい。これを読んで駅長は、漠然と影や帽子に包囲されていくような気がしてならなかった。それは逃げている意識もなしに、逃げ場のない角に追い詰められていくような感じだった。掃除婦の弟が描いた王のように、箱の中に閉じ込められたような気がした。そして不安にかられた駅長は、死んでしまうまでに何か書いておきたくなってきた。もしかすると掃除婦の弟が書いたこの『漂流』も、何もかも失った時不安にかられて書かれたものなのかもしれない。これを書く事によって何が解決するというわけでもないが、これはこれで掃除婦の弟にとって遺書のつもりだったのかもしれない。きっとこの弟も死ぬ前に影と出会ったに違いない。駅長にはそう思えた。遺書とはさみしさをまぎらせるために書かれるのだろう。そして駅長は死を目前としてさみしかった。 駅長は鉛筆とメモ用紙を取り上げ、寝転びながら手のひらの上に紙を乗せた。鉛筆のけずり先を紙にあてるまで駅長は自分がこれから何を書こうとしているのか検討もつかなかった。小さな不ぞろいの字で書かれ始めたのは、駅長の幼少時代のある場面についてだった。 第185回
そういえば昨日のこの時間、ハエと話をしていたな。駅長は昨日ハエのいた天井を見上げながらぼんやりと思い出していた。どんなことを話したんだっけ?そもそもあのハエは何をしにここにやって来たのだ?象の話をしていたような気がする。しかし駅長にははっきりと思い出す事ができなかった。こんな風に何もかも忘れていってしまうのだろう。駅長は少し寂しくなった気がした。今日ハエは部屋にいないようだった。しかしだからといって窓を開けてハエを招き入れるのは億劫だった。ふと駅長のベッドから手の届く小さなテーブルにメモ用紙と鉛筆が見えた。こんなところに今まで鉛筆なんてあったかしら?駅長は不思議に思った。そして鉛筆を見ていると死ぬ前にやはり何か書き残したくなってきた。何を書こうかしら? そのとき扉が開いて、暑苦しい呼吸をしながら帽子が入ってきた。手には汚れた小冊子と束になった便箋を持っていた。 「いよいよあと二日だね。厳密には一日と半分か。」帽子がふうふう苦しそうに呼吸をしながら話し出した。 二日後が何を意味するのか分かったが、なぜ帽子がそのことを知っているのか駅長には不思議だった。 「これ、読んどくといいよ。」こう言うと帽子は手に持った小冊子と紙の束を鉛筆の乗ったテーブルの上に置いた。 これは何なのか、そしてなぜ読まなければならないのか駅長が尋ねると、帽子はいやらしい微笑を浮かべて答えた。 「これは昨日詩人さんが掃除婦から受け取った手紙と『ある本』だよ。どうも時間をもてあましてるようだったからね。これを読むとひまつぶしになるでしょう。」 この説明では納得のいかなかった駅長はさらにいろいろと尋ねようとしたが、帽子はくるりときびすを返すと、頭皮の蒸れた臭いを残して部屋からさっさと出ていった。しかし、納得はできなかったが、今しがた他界して棺桶に入れられた詩人に送られてきたという手紙は、駅長の好奇心を充分にかきたてた。うそつきが言うにはこの手紙を読んでから詩人の行動はおかしくなったそうだ。 |
木鳥 建欠
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