第99回
王はよろけながらもなんとか床に固定されている樽までたどり着くと、水を一杯口にふくんだ。にがい味を残したままからからになった口に水を入れると、甘く爽やかな味がし、気分がいくらか晴れた気がした。樽の水は半分以上こぼれ落ちていたが、この先のことを計算することなくもう一口水を両手ですくう。しかし今度は味わうひまもなく痙攣したように胃が拒絶反応をおこし、さっき飲んだ水といっしょに吐き出してしまった。そしてもうそれ以上飲むのをやめ、かたいベッドにちからなく横たわった。死ぬまでこの船酔いに悩まされるのだろうか?こんな考えに悩まされながら王は少し眠った。そしてそのまま数日間、シーツにくるまりながら水を一口飲む以外はずっとベッドの上ですごした…。 海に漂いだしてから二十日目に初めて王は食欲を感じることができた。それまでは両手ですくう一杯の水だけを一日に一回飲んで足りていたのだが、部屋の揺れに慣れだしてくると同時に空腹が気になり始めてきた。しかし王は、この漂流の刑にはあの呪われた固いパンしか食糧として載せられていないので、食べるものはこれと小姓に細工させておいてテーブルとイスの下に隠しておいた塩漬けの肉しかなかった。この二種類の食糧だけをもとに生きていかなければならないのだが、もちろん誰もこの食糧が底をついたとき代わりとなるものを補充してくれはしない。もしこのまま王が生きつづけていくのだとすれば、これだけの食糧では足りなくなるのは目に見えている。もちろん数日後にどこかの島に流れ着かないとも限らないが、それをあてにするには状況はあまりにも悲観的すぎる(だいいち王のいた国では、あの砂浜から流れている潮はどこにもたどり着くことなく、半永久的に大陸から外に向かって流れていると信じられていた)。つまり、今もっているだけの食糧を有効に使ってこれから過ごす期間持ちこたえられるだけの食べ物を確保しなければならない。でもどれだけの期間分必要になるのか?どれだけ貯めこめれば充分なのか?そしてどうやって?王は贅肉のそげおちた体をさすりながら考えた。 王にとって近い将来もふくめた未来について考えることは苦痛だった。この生活がわしの死ぬまでつづけられるのか?本当に死ぬまでこんなバカげた生活がつづくのか?どうかすると王にはこれらすべてのことが悪夢であって、ちょっとした刺激で夢から覚めるようになにもかもすべてもとどおりになるのではないか、と期待したりした。目が覚めれば、またあの大理石の壁に囲まれたひんやりとした大きな部屋の真ん中で、絹のシーツにはだかでくるまって国中から集められた甘い果物を食べたり、また暑い昼下がりに赤ん坊のようになめらかで弾力のある肌をもつ選りすぐりの女たちを相手に、夢中で愛撫して過ごしたりしているのではないか、と想像したりした。しかし悪夢はつづいた。休まることなくつづくこの拷問は、王の精神をむしばんでいくのであった。ああ、この広い海に浮かぶ、狭い四角い部屋でどうやって安定した食料を確保することができようか!絶望にかられながら部屋を見まわすと、壁や床じゅうにこの二十日間吐きに吐きつづけた自分の吐しゃ物や排泄物がそこら中に乾いてシミとなって残っているのが見えた。もちろん誰かが訪れてきて掃除してくれる者はいない。王は愕然とした。いまだかつてこのような汚い部屋に住んだことはなかったのだ。何だここは!悪魔のような船酔いから逃れ始めた王は思わず叫んだ。これではまるで便器のなかで暮らしているようなものじゃないか!かつては何十人もの掃除人が王の住んでいた建物を毎日磨くように掃除していたものだった。
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第98回
暗闇のなか横たわりながらそんなことを考えていた王の耳のすぐ下では、水の音が響いていた。するとうすい板の下には無限の海が横たわっているのが感じられてくる。その上を幸運だけを頼りに、けしつぶほどの大きさのこの部屋が波間に漂っているのだ。なぜなら、その気になればこの部屋を飲み込むくらいの大きな波は、辺りにそれこそ何千何万とあるのだろう。だからこれからも浮かんでいられるかどうかは、まさに運まかせであって、それ以外何を頼るというのだ?意識しないでおこうと思えば思うほど余計にこの水の音が耳についてくる。この水の音は嫌なことを考えさせる。ああ、灯りのついた陸に戻りたい…。王は頭がまわるような胸悪さと、シーソーのように絶えず揺れつづける床と、消えない波の音とで強靭だった精神をこなごなに砕かれてしまい、涙を流して弱音をはいた。なにより精神的にこたえるのがこの閉塞感であった。今から力の限りどんな努力をしてみせても、この苦境から逃れる可能性はない、という閉塞感。仮に壁をぶち破ってみても、あるのは見わたす限りの海しかない。手と足をちぎれるくらい動かして泳いでみてもどこにもたどり着けることはできない距離。どんなに小さな面積でもよいから波の影響を受けない場所で、一分なりとも体を休めることをゆるしてくれる場所を提供する事のない海。この海に漂う限り、腕一本でも足一本でも休める場所は存在しない。広い場所にいながら完全に閉じ込められてしまったこの閉塞感!王はひそひそと泣きつづけた。王が最後に泣いたのは、むかし何十年も前に、女王でもあった母を失ったときだった。 翌日王は、酔いに悩まされてはいたが、初めてまともに立ち上がることができた。そして小さな窓から揺れる景色を眺めた。二つある窓両方から外を見てみたが、陸はまったく見えなかった。このあたりの潮は早いと言われている。おそらく一晩たってもうすでに陸からは、はるかかなたに離れてしまったのだろう。王もその昔この刑を執行した際、民衆と一緒に砂浜から四角いこの牢獄の部屋が、どんどんと潮に押されて沖まで流されていくのを幾度となく見たものであった。そのときまさか自分がこの中に押し込まれ流される運命になるとは、想像もつかなかった。 第97回
四角い箱はその刑をまっとうするためどんどんと岸から離れていった。そして離れていくにつれ、王の船酔いはひどくなっていった。王は胃の中のものをすべてひっくり返し、それにつづいて酸い胃液を吐き、さらに嘔吐をくり返すうちに胃が炎症を起こして血も吐き出し始めた。小窓からはまだ岸が見えたが、人だかりはもう砂浜の黒いしみのようにしか見えなかった。もうこの場所から見える景色はほとんど、淡い空の青と、濃い海の青だけになっていた。 吐き気は人間の気持を焦らせる効果がある。王は冷や汗をかきながら、今すぐにでもこの壁を突き破って、しっかりと固定された動くことのない踏みなれた地面に立ちたい、という狂おしいくらいの欲求にかられた。そしてそれがまったくかなえられる可能性のないはなかい希望にすぎないという認識が、さらにおそらくは死ぬまで固定された地面に立つことを許されず、このままこの憎々しい揺れる床において生活を余儀なくされるという強迫感がいっそうこの王をいらだたせた。たのむ!内臓をひっくり返すような勢いで、数滴の血の混じった胃液を吐き出している王は、目に涙をため、床をのたうちまわって誰にともなく懇願した。たのむ!もうこれ以上は勘弁してくれ。数分間でいい、十秒でもいいからこの揺れを止めてくれ!これ以外ならどんな屈辱でも味わってもいい!八つ裂きにして殺してもいいから、どうかこの揺れを止めてくれ!たのむ!王は誰も聞いてくれない自分の懇願を力いっぱい叫んだ。その姿は、王が今まで誰にも見せた事がないくらい卑屈なものだった。そして誰はばかることなく泣きだした。 夜はもっとおそろしかった。闇は想像力をかきたてる。この漂流の初めての夜、月は出なかった。まったくの暗闇の中、嘔吐との格闘に疲れ果てた王は、部屋が傾くたびに抵抗することもできず、ぐにゃりぐにゃりと床じゅう転がりまわり、固定されたテーブルやイスにぶち当たった。あたりは部屋の壁に砕ける波の音と、そのつどひびく部屋のきしみが聞こえてきた。あとは自分がもらすうめき声だけ他人の声のように聞こえていた。もうろうとなって、自分の吐しゃ物にまみれ、床にころがったまま王は初めての夜を過ごし、あらためてこの刑の恐ろしさを知った。確かに囚人待遇ではあったが、つい昨日まで王が暮らしていた美しい部屋の、美しいベッドがウソのようだった。そういえば、王が王であったとき、何人もの人間にこの漂流の刑を宣告したものだった。なかには病気の母に食べさせるためにパンを盗んだ貧困に苦しむ青年を、同じような箱に入れて同じように砂浜から流したものであった。それは当時王にとってただ自分の力を見せつけるためだけの、定期的な催しにすぎなかった。輝く太陽のなか、王の命令のもと砂浜に集められたぎらぎらした目をもつ民衆に見つめられながら刑は執行された。王はそのときの青年のきらきらと光る瞳をまだしっかりとおぼえていた。そして同じような目をもったこの青年の母が、刑使に砂浜に組み伏せられながら自分の息子の漂流を絶望とともに見送っていたのもおぼえていた。 第96回
もっともめったに落ち込むことのなかった王は、いつもどうやってこの境遇から抜け出せるものか、と日々思案していたのだった。そのためにはまずどうしても食糧を確保しなければならない。『ひとはパンのみでは生きていくことはできない!』王はいつも腹が減るとこうつぶやいた。食糧確保について王は、ある工夫を考え出していた。これはまだ王が王として地上に君臨していたとき、その小姓役として献身的に仕えてきた者が、王の命令でひそかにこの箱の製作者にもばれないようある細工をさせておいたのだった。この小姓は王がこのおそろしい漂流の刑に処されることが決定したとき、ひそかにこの床に固定されたテーブルとイスの裏側一面に塩漬けにされた肉をしき詰め、もう一枚その上から板をかぶせて隠しておいたのであった。 しかしこの肉を食べる機会は、漂流当初にはおとずれなかった。王自身、毎日その大きな宮殿から大きなあおい海をながめて過ごしていたのだったが、じっさいその海の上では生活したことがなかったのだ。そしてこの絶えず波で水面を起伏させる海上で暮らすとはどういうことなのか想像もつかなかったのであった。船にも乗ったことのない王にとって、この安定性の悪い四角い漂流用の箱の部屋は耐えられないものだった。果てしなく伸びる白い砂浜が真っ黒になるくらいに見物の人で埋められ、この今まで統治してきた民衆に見守られながら、漂流用のこの部屋が波際まで並べられた丸太のうえをすべるように移動して着水したときから、この永久に揺れつづける床に王はがまんができなかった。十分も立たないうちにこの揺れる空間に酔ってしまい、床の上でのびてしまったのだ。それは今まで体験したこともない悪夢のような生活だった。当然の事ながらこれまで王が暮らしてきたどんな小さな部屋も、ひとりでに動いたりはしたことがなかった。しかし王はこの揺れる部屋の内側にいて、波に持ち上げられては沈み、そのたびにつぶれそうなくらい大きなきしむ音をだす部屋内での生活をしいられたのだった。自分がバランスをとって立つこともできないくらい揺れる床に住まなければならないということは、こんなにもおそろしいことだったのか!王はあらためてこの刑の残酷さを知った。そしてまた波はこの小箱を軽々と持ち上げ、波の谷間に突き落とした。そのつど王はひっくり返った床から、小さな窓を通して、いま出発してきたばかりの海岸をのぞいた。箱はまだ砂浜近くを浮遊しており、まだその上にいる群集の顔を判別できるくらいの近さだった。ひとつひとつの顔は、口を大きく開けこっちに向かってなにやら叫んでいた。両こぶしを振り上げているものさえ見える。個人の顔は見ることはできたが、個人の声は判別することはできなかった。それはひとかたまりになって大きな歓声として聞こえてくるだけだった。歓びとも罵声とも呪いともとれる声がびりびりと海の上にいる王の部屋まで伝わってきた。ふと、この部屋を押し出した丸太の並べてある横に、何人もの従者を引き連れた、派手な紫色のローブとこの国の統治者をあらわす金の首飾りをぶら下げた、頭の禿げ上がった男が見えた。こっちを神妙に見つめている。内心ほくそえんでいるのが、手にとるようにわかった。このお調子者め!王はその男のことをののしった。以前まではわしの足でも舐めんばかりの臆病者だったくせに、知らぬ間に部下を煽動しやがって!あんな間抜けなんかにだまされるとは!揺れつづける小窓からは、これまで王が足もとにひれ伏させ、指一本の動きにもびくついていた、数が多いだけで何のとりえもない民衆が見えた。歓声には怒りがこもっているように聞こえた。王の助命を嘆願するような酔狂な人間はひとりもいない。皆一様に、今までの王の暴政に対する怒りをあらわにしていた。もしかすると新しい王に煽動されているのかもしれない。ふん!自分で何も考える力もないくせに、いっちょうまえに怒声なんてあげやがって。どうせ大半のやつらは自分たちがなんで怒っているのかも理解しておらんのだろう。以前まではその命令を遂行するためにはみずからの命も犠牲にしていた人たちから追い出された王は、さみしさも手伝って愚痴をこぼした。 第95回
第3章 ‐漂流‐ 『海には声がある。その声はじつに変わりやすく、ほとんどいつも聞こえる。それは一千もの声のように響くひとつの声であり、多くのもの―忍耐とか苦痛とか怒り―がその声で表現されてきた。だが、声についてもっとも印象的なことは、その執拗さである。海は決して眠らない。昼となく夜となく、数年間も数十年間も、海はその声を聞かせてくれる。』 エリアス・カネッティ 『群集と権力』 偉大な王は、大きな海のただなかに浮かぶ部屋のなかで漂っていた。その部屋にはイス、テーブル、寝台の木の箱そして水を入れた樽が床に固定されていた。部屋は波に絶え間なく揺らされつづけた。入り口はあるが、外から頑丈に閉められているため、二度と出口としては使えない。外に通じるものは、木の扉でできた小さな窓が四角い部屋の両側にふたつあるだけだ。あかりはそこから取られる。その他部屋にあるものは、粗末な布とたらいがふたつ。ひとつは食事用に、もうひとつは排便用に用意されてあった。それから樽に入れられた水と、水に一時間以上つけておかなければ噛むこともできない保存用パン。その他はまったく何もない木の箱の部屋だった。 この部屋の外側の下半分は、鋼鉄で覆われていた。木の腐食を防ぎ、おもりのかわりにもなり、部屋を海の上で立たせる役目があった。そしてこの部屋の一番大切なしかけ、それは部屋の床の中央にあった。よくみなければわからないが、そこには大きなコルクがひとつ差し込まれてある。王は気が滅入るといつもこのコルクを眺めて過ごすことになっていた。コルクを引き抜けば海水が部屋にあふれ、数十分で部屋全体が沈むしかけになっている。つまり、この部屋の住人がこの息の詰まりそうな密閉に耐えられなくなったとき、一気にその生活を終わらせるための装置である。この部屋に入れられたものは、その苦しみに身も心もぎゅうぎゅうとしぼられたとき、決まってこのコルクをながめそしてそこから逃れ出る誘惑にかられるのであった。もちろんそうなることは製作者のもくろみでもある。王はどうにもならないくらい気が弱くなって落ち込んだとき、このコルクを何時間も眺めてすごすのだが、製作者のその意図を思い出すと、その屈辱的な意図を自分の怒りにかえて立ち直るのであった。そんなときこの偉大な王はこんなふうに考えた。 「こしゃくな!このわしに死ねというのか!おまえらはわしの死を決定できるほどそんなに偉いと思ったのか!わしは死なんぞ。おまえらの想像どおり簡単に死んでたまるか!わしはおまえらが考えるほどやわにできておらんのだ。おまえたちがその意図でこの装置を作ったかぎり、わしはぜったいにその意図ではこれを使わんからな!見くびられたものさ。おまえらのような子供じみた頭で考えた想像範囲内では、わしはぜったいに行動せんのだ!」 第94回
このぼろぼろの家でのみじめな生活からは弟の復活はとても想像できるものではありませんでした。そしてそんな子供じみたことを信じきっている弟があわれでもありました。それでも弟は来る日も来る日も母の墓にいって、自分の希望を大切に育てているようでした。 そしてある日、母の墓から帰ってきたとき、顔を真っ赤にした弟は興奮を抑えて声をひそめてこう言いました。 「どうやらとうとうらしい。」 わたしにはそれがどんな意味を含んでいるのかすぐにわかりました。 「あしただ。あしたにすべての苦労がむくわれるんだ。すべての用意は整った。あとは帰るだけだ。でもあんたにはわるいがここに残ってもらう。その醜い腹をかかえておれといっしょに来られたらどんな憶測が流れるかわかったもんじゃないからな。うまくいくものもいかなくなるんでね。まあたまにはなんとかしてあんたにもここまで食糧がとどくようにしてやるよ。」 わたしも別に一緒に行きたいとは思っていなかったので、おとなしくしたがっていました。そして翌日弟は小冊子だけふところに入れて、あとは何ももたずに、顔を上気させて前だけを見てうしろは振り返ろうともせずに出ていきました。 そしてそのまま帰ってきませんでした。一週間後、母の墓まで出かけてみると、そこには裏切られた弟の大きな体が大の字になって横たわっていました。首だけは切り落とされてありませんでした。体中にはあらゆる虫が黒々とたかっていて、肉の腐った嫌なにおいがわき上がっていました。そばには弟が持っていった小冊子が落ちていました。この手紙といっしょに同封したものがそれです…。 手紙はまだ続いていたが、詩人はちょっと目をあげると、その小冊子をつまみあげた。厚紙で装丁されたそのノートは汚れはて、いろんな染みがつき、ていねいにページをめくらなければばらばらにほどけてしまいそうなほどくたびれていた。文字は姉に似ず大きく不ぞろいで、読みにくいものだった。『漂流』とその物語は名づけられていた。 第93回
「罪?おれはどちらかというと、その兵隊に感謝してるくらいだよ。あんたらのようなミミズみたいな生活なんてまっぴらだからね。おれは知事だったころからそういう人間をいやというほど見てきたよ。何も考える力がないのか、まいにちまいにち生きていく上でぎりぎりの金を稼ぐためだけに時間も才能も感情もなにもかも犠牲にしてるんだからね。それこそ大きな市場ぜんたいがそいつらだけで埋まるくらいいたさ!おれはそんなやつら大勢を見るたびに、『ああ、こいつらがいるかぎりおれはここで、この位置で暮らしていける』と思ったもんだよ。だってそんなばかなやつらがいるからこそおれの立場が確保できるわけだろ?それにおれのしたことはあんたが言うほど悪いことじゃないかもしれないよ。だってそうじゃないか、おれのおかげでそのミミズみたいな生活から抜け出せる血を手に入れられるわけなんだから。おれがその兵隊のおかげでやつらの上に立つことができたように、おれの血を手に入れたガキどもはきっと強くなってたくさんの人間を従えることができるようになってるはずさ。もっともほとんどのやつは、おれの血を受け継いだということだけでこないだのクーデターで殺されたけどね。へ、へ。」 それはまるで弟の父親、あの兵隊のような話しぶりでした。弟には色濃くあの兵隊の性格が伝えられているのでしょう。わたしはこの粗末なじめじめした家でこの男とふたりで暮らすことに薄気味悪さを感じたものでした。あなたのいう神は、このような男にはやどらないのでしょうか?あるときおもいきって弟に神についての彼なりの考えを聞いてみました。そして面倒そうにこう答えたのです。 「神だって?神はあんたら弱い人間に必要なもので、おれには必要ないもんなんだ。むかしよく見かけたよ。たくさんの人間がわらわら群がって、互いにけん制しあいながら警戒して、誰かひとりでも突出しようものならなだめたりすかしたり押さえ込んだりして…。うまくいえないけど生身の人間が上に立ったらあんたらはそいつの欠点をなんとかしてさがしだし絶対に認めようとしないんだ。そしてかわりになんでも知っててなんでもできる神に自分たちを治めてもらおうと願うんだよ。だから神なんて結局あんたらの必要に応じてつくりあげたものなのさ。でもおれの存在自体が神がいないことの証明になるかもしれないな。どうだろう?あんたが神ならおれみたいな人間をこの世でのさばらしたりさせるか?でももうどうでもいいよ。いたらいたでどうせどうあがいたっておれの地獄行きは決定だろうからね。いままでもたくさん人を殺してきたし、これからも殺すだろうから…。おれはまだおれを蹴落としたやつらを許したわけじゃないからな。いずれあの場所に戻るときには、おれがいま味わっている以上の屈辱をやつらにも舐めさせてやるさ。」 第92回
この場所でわたしは弟と子供のときよりもよく話しあいました(もっとも子供のころは、いそがしくて弟と話す機会はすくなかったのですが)。内容は母に関してのものが多かったようです。弟がまだ幼いころに母が亡くなったのですが、思いのほか、弟には母の思い出が残っているようでした。そしてまた母についての話も聞きたがっていたようです。弟はわたしが話すひとつひとつの言葉を、大きなあごをごりごりと動かしながら咀嚼するように聞いていました。その顔は無表情でしたが、わたしには母を悼み懐かしんでいるように思われたものです。弟は母が死ぬとすぐに家を飛び出していったのですが、そのことに関しては何も語ろうとしませんでした。でもたまに州知事時代のことなど思い出しては、ひまつぶしにわたしに話してくれました。ああ!でもその内容は、とても尋常なものではありませんでした。弟は平気な顔をして自分の悪行を悪行とも思わずかぞえたててみせたのです。人をさかさにつるして、目の玉が落ちてくるのを待ったり、自分の腕を食べてしまうくらいに人を飢えさせたりと、悪魔でも考え出せないようなことを実行して、それを思い出してはにやにやと笑っているのです!弟をさらに喜ばせたものは他人から最愛のものを取り上げることだったようです。街中にとつぜん現われると、白昼堂々と自分の気に入った女を家族の前で(それも幼い子供の前で!)引きはなし、自分の邸宅につれて帰ったりしたようです。「そうしておれの種をまいてやったのさ!」自慢げに恐ろしいことをはなしていました。そのうちのいくつかはとても文面にできない野獣的なものばかりでした。わたしは弟がその大きな体のなかで良心の呵責を少しでも感じていないのかどうかさぐってみましたが、どうもなんとも思ってもいないようなのです。そんなときは、わたしのおなかを見て何かいいたげに鼻でせせら笑うだけで、なんとも答えてはくれませんでした。 ある時わたしは弟の良心を呼び覚ましたくて、彼にはいままでわたしと母でひた隠しに隠していた出生の秘密を―彼が誰の犠牲でどういうふうにして母に宿されたかを―そんな必要もないのに夢中になって、彼にまくし立てたことがありました(後からわたしがこのことについてどんなに後悔したか、なぜそんな無用なことをしでかしたのか、恥知らずな自分を許せない気持でいっぱいになりました)。弟はやはり無表情にあごを動かしながら聞いていましたが、「そうか」とつぶやくと不敵に笑ったのでした。そしてつづけていいました。 「おれは今までどうしてあんたみたいな、従うだけしか能のない姉と、世の底辺でみすぼらしく生きてた母を持っていたのか不思議だったんだよ。なるほどな。おれにはあんたたちとは違う強い血が流れていたんだな。へ、へ、へ。」 そこでわたしは、自分と同じように不幸な産まれ方をしてくる人間を増やしたことにたいして、罪を感じないのかどうか、心が痛まないのかどうか聞いたのでした。 第91回
それは腹違いとはいえ、十数年ぶりの弟との再会とはとても呼べないものでした。弟の態度から読みとれたものは、新しい家来を得てうれしい、というものだけでした。それ以外の一切の感情表現はありませんでした。隠れ家はむかしわたしたちが母と一緒に住んでいた小屋よりも粗末で小さなもので、なかには汚いテーブルと弟の体だとはみ出てしまうような寝台ひとつしかなかったのです。そこに到着するや否や弟はわたしとの再会を懐かしむ様子もなく、おそらく州知事時代からのなごりでしょうが、とつぜん王のように寝台にふんぞり返ってわたしに身の回りの整理をするよう命令し始めたのです。わたしの方はというと、この再会に何か不気味なものを、まるで虫かごから逃げ出したやさきに蜘蛛の巣に引っかかってしまったような、わたしの人生自体が呪われているような感じがしたものでした。もちろんまったくうれしくなかったわけではありません。中身のからっぽなこの空威張りには憐れみを感じさせるものがありましたし、もしかするとこれが弟の知りうる唯一の他人との会話の仕方だったのかも知れません。だいいち弟はその大きな体を使って追ってからすばやく逃げる以外、なにも自分ですることはできなかったのですから。四六時中四方に気を配って、小さな物音にも飛び上がるくらいに驚いていたくらい気が小さい男なのです。だからこれ以外の再会の仕方は望めなかったのかも知れません。 弟のここでの暮らしはひどいものだったのでしょう。わたしという仲間を得た安心感と、わたしが集めてくる食べ物(そのあたりに自生している草やきのこや、時には昆虫などを採取してました)で栄養をつけると顔には生気が戻ってきて、以前までの周りに対するトカゲのようないやらしい用心深さが薄れていったように思えました。わたしはここで弟の身の回りの世話から食事の世話まですべてしていました。先ほどもいいましたが、弟は幼いころから州知事時代を経て落ちぶれてここに来るまでまったくといってよいほど自分のことをやってこなかったので、それこそ火を焚くことすら自分でできなかったのです。わたしは体の衰えのせいで動き回ることはできませんでしたが、そんな弟のために一日かけて最低限の事はやっていました。 弟のいちにちの日課は食事と母の墓参りと小さな冊子になにやら書きつけることから成り立っていました。母の墓参りと言っても、昼食の後数時間かけて用心深く墓の前まで行って、数分間その前ででくの坊のように立ちつくすだけでしたけれども。そしてその小冊子のほうには、午前中と夜の月明かりのあるときだけ取り出して、隠れるようにこそこそと何か書いていました。さらに弟はまだ元の地位に戻ることをあきらめたわけじゃないようでした。まだ自分のことを慕う部下が州政府内にいるらしく、その人たちが自分をまた元の地位に戻してくれるよう工作してくれると信じきっていたのです。毎日の母の墓への日参はその部下との連絡の意味もかねていたようです。弟は州政府の内情をなにもかも把握しているつもりでいたし、さらには裏からあやつっているような気分でいたのでしょう。いつも臆病そうにだれも後をつけてきたものがいないか確かめながら帰ってくると、ひとつしかない小さな寝台にきゅうくつそうに座って、満足そうにうなずきながら今にもすべてが自分のものになると確信を抱いているようにみえました。 第90回
毎朝起きると、その日の夕陽を見ることはもうできないだろう、と観念しながらそのときそのときで動けるだけ歩きつづけました。しかし不思議と、確かにすすんでいる距離は短かったのですが、来る日も来る日も生き長らえることができたのです。もしかすると母の墓までたどり着くことができるかも知れない、と思い始めたのは施設を出てから十日以上たち、山をふたつほど越えてからのことでした。残す道のりはまだまだ長かったのですが、わたしはひそかな自信をそのときに得ていたのです。それは道のりは険しかったけれども、つらいとはすこしも思わなかったからでしょう。最終的に三ヶ月ほど誰とも会わず、山の中をさまよった末、母の墓にたどり着きました。衣服は破れ、体中傷だらけになりながらの到着でした。そこでわたしはうれしさに浸る余裕もなく、あるおおきな衝撃におそわれたのです。そこで予想もしていなかった人物と出会ったのです。そこでわたしが誰と出会ったと思われますか? 母の墓はわたしたちが最後に暮らした町の近くにある山の頂上にあるのですが、そこに到着したときは夕刻で、あたりはすでに薄暗くなっていました。墓の周りには木が何本か生えていたのですが、その下にわたしと同じようにぼろぼろの服をまとった、極度の肥満でお化けのような男が立っていたのです。その男は母の墓の前に立ち尽くしていたのですが、わたしが近づくのにも気付かない様子でした。わたしはそのときとても信じられないようでいて、前々から予測していたような不思議な気分になったのです。知っていたけど知らなかったという不思議な気分です。そしてその男がふりむいてこちらに顔を向ける前に、それはあの腹違いの弟だとさとったのです!弟は、わたしの大嫌いなあの忌まわしい兵隊を思い出させる目以外はまったくの別人になっていました。体は脂肪ではちきれそうにふくらみ、頭には大事そうに薄い髪の毛が残され、顔は強欲でゆがめられ、むかしの名残と言えば、あの兵隊の目と、相手を見下したような尊大な態度だけでした。向うもすぐにわたしと気付いたようでした。そしてわたしのふくらんだおなかを見て、なにもかもさとったような顔つきで、薄汚い微笑を浮かべたのでした。 弟は、「ここにいてるといつ追っ手が来るかわからないから」とすぐに自分の隠れ家までついてくるよううながしました。弟は州知事の地位を失脚してから、常に恨みを持つだれかれから追われているようなのでした。弟は大きな体に似合わず、器用にそして臆病そうに動きまわって、母の墓から数時間はなれたところにある隠れ家の小屋までもたつくわたしを引っぱるようにして連れて行ってくれたのです。 |
木鳥 建欠
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