第69回
「聞いたかい、おまえたち!ハ、ハ、ハ。おもしろいことを言う人だね。あの薄汚いじいさんが?ハ、ハ。確かにあのじいさんの素性は誰も知らないけど、だからって神はないだろう?それであんたはどう思ったんだい?まさか本物とおもったとか言い出すんじゃないだろうね?」 「それが、残念ながらお会いする前に気絶してしまって…。」 「それはさぞかし残念だったろうね!ハ、ハ。」 「母さん。」掃除婦が母親をたしなめた。 「これが笑わずにいられるかい?ところであんたはどうなんだい。」母親は掃除婦の方を向いて言った。「あのじいさんに少しでも神とおもわせるようなところがあるとおもうのかい?」 「確かに少し変わった人だけど。」掃除婦は思案しながら答えた。「いつもイスに座ってて、ほとんど何もしゃべらないし…。」 「でも要するに神とはおもえないんだろう?」 掃除婦は詩人に遠慮するように黙っていた。 「坊さんに遠慮することはないよ。それにもともとあたしたちは神なんか信じちゃいないしね。そうだろ?」母親は掃除婦に同意を求めた。 「でもあなたは…。」詩人は何か言いかけたが止めてしまった。 「なんだい?何が言いたいんだい?」母親はむきになって言った。「神を信じないと言ったことが気に入らなかったのかい?じゃあ正直にあんたに聞くけど、あたしたちの生活に神は必要と思うかい?」 「必要です。」 「ふん。坊さんだからしかたなくそう言うんだろう?けどね、みんながみんなあんたたちみたいに神を拝んでるとおもったら大間違いだよ。もうそんな時代は終わったのさ。この近くに住む婆さんなんか、一粒だって食べ物を他人にあげたことがないくらいけちで有名なのに、毎日毎日自分の食べ物のほとんどをなんだか分けのわからない干からびた骨のかけらにささげてるんだ。家の中の一番いい場所にそれが置いてあって、ヒマさえあれば両手合わせておがんで…、それが婆さんを守ってくれてるんだってさ。え?それがどうだい?婆さんの暮し向きは少しだって良くはなってないんだよ。いつまでたってもみすぼらしい格好で穴だらけの家に住んでさ。ご利益が聞いてあきれるよ。」 「霊媒と神を」詩人はあわてて言った。「勘違いしてはいけません。」 「カンチガイ?フン。カミもユウレイもレイバイも似たようなもんじゃないか。何がちがうって言うんだい?じゃなにかい、干からびたホネの代わりにカミに祈ってたら婆さんはもっとまともな暮らしができてたって言うのかい?カミさんならもっといい家でもたててあげられたのかい?」 「あなたはわざとそんなことを言っているんだ。神はこの世での物質的裕福のために人を助けないのを、あなた自身がよく知っているはずです。」 「ハ、ハ、ハ。」母親はやせた体をゆすって大声で笑った。
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第68回
「おおこわい。そんな目でにらまなくたっていいじゃないか。あたしはあんたの体を心配してあげたんだよ。あれ、坊やもういいのかい?」まだ食べ物の残っている皿を小さな手のひらで遠くに押しやっている息子を見て母親は言った。 息子は「いらない」とだけ言うと、さっさと食卓からはなれ、詩人が座っているソファの横にあるベッドに登った。母親は息子の食べ残した皿を引き寄せ、自分で食べ始めると詩人に言った。 「で、お坊さん。あんたはどうやってうそつきなんかとつるみだしたんだい?物好きにもほどがあるよ。あれがどんな人間か知ってるのかい?自分の息子をほったらかして朝から晩まで酒をくらってるような人間なんだよ。あの男の金を手に入れる方法を知ってるかい?自分の奥さんに更生を誓ってそれで『人生をやり直すために』奥さんがひそかに残していた最後のスカーフをとりあげてその足で酒を飲みに行くんだよ。じっさいしらみでもそこまでしないよ!」 「今日はじめてあの人と会ったんです。」詩人は答えた。「今日の昼間うちの相談所にやってきて…。」 詩人はあのうそつきの『神との邂逅』の話をこの家の人たちにするべきかどうかまよい、口をつぐんだ。あたたかいお茶で幾分か正気をとりもどした詩人はあらためてこの粗末な部屋を見回し、そして食い入るように何かを期待する目で詩人の話を待っている三人のこの家族に気付いた。 「それで?」じれったそうに母親が詩人をうながした。 「それで…、うそつきさんに連れられて、あのおじいさんの家まで行ったわけです。」 「なんだってうそつきは、あんたをあのきたないじいさん家まで連れて行かなきゃならなかったんだい?」 「それは…」詩人は母親の視線から逃れながら言った。「あの人があのおじいさんのことを神だとおもったからです。だから『神に会わせてあげよう』って。」 「何と会わせるだって?」 「神です。」 「カミ?」 「はい。」 「カミってまさかあのカミかい?」 「はい、天上におられる神です。」 「あんたたちが信仰してるあの神かい?」 「はい。」 母親はここまでくると、子供達の顔を何度も見ながらこらえきれなくなって、ヒステリックに笑い出した。掃除婦は小さな目を見開いて驚き、息子は落ちついて聞いていた。 第67回
「どなただい?」あごで詩人を指しながら母親がたずねた。 「町外れにある相談所の詩人さんよ。母さんも聞いたことがあるでしょう?」 「お坊さんかい!」母親は驚きの声をあげた。そして詩人の方をむきながら、「坊さんがこの家にいったい何の用があるんだい?まさか寄付をせがみにきたんじゃないだろうね!それだったらあんた、見当違いもいいとこだよ。そうさ!だれだったかな、むかし誰かがあたしに『坊さんは民が苦しめば苦しむほどふところが潤う』って言ってたよ。うまいこと言って、困ってる人の弱みにつけこんで金をまきあげるんだろう?でもね、あたしたちの弱みにつけこんでも、もう何もでてきやしないからね。」 母親の日焼けした顔には、どす黒い疲労がにじんでおり、実際の年よりも老けて見させていた。 「ちがうのよ。」掃除婦は母親をたしなめた。「詩人さんは今日、あのじいさん家にうそつきさんと来られた時に熱にたおれてしまったのよ。だから少しひと休みしてもらうために…。」 そう言いながら掃除婦がいつも寝台に使っているソファに詩人を座らせた。弟は興味深げに、憔悴している詩人を目で追いながらだまって食事を続けていた。 「あのうそつきの知り合いなのかい?」母親は息子の食べ散らかしをつまみあげながら言った。「じゃああんたも世間で言われているようなたいした坊さんでもなさそうだね。あんたのことは町でも評判なんだよ。盲目のばあさんのひとり息子が十年ぶりに帰ってくるのを予言したりしたんだろう?どうしてそんなことあんたにわかったんだい?あ!おまえ何をしてるんだい?」母親は掃除婦が自分の夕食を分けて詩人に与えているのを見とがめて言った。「ふん、やっぱり貧乏人から食べ物をとりあげに来たんじゃないか。その一皿がこの子にとってどんなものだか知ってるのかい?それにしてもあんたも物好きだねえ。そんな坊さんなんかになけなしの食事をわけてやったりして。」 もともと辞退するつもりでいた詩人は哀願するような表情で、掃除婦にたったいま分けてもらった食事を返し、かわりにもらった温かいお茶を両手で大事そうにすすった。掃除婦は恥ずかしそうにそれを受け取り、母親に対して強い非難のこもった表情でにらんだ。 第66回
話を聞き終わると詩人は、もう一度神に会いに行くようすすめるうそつきをふりはらい、暗くなった長い道のりを引き返しはじめた。昼間吹いていた風は止み、砂つぶひとつ巻き上がらない道は、日中ためこんだ熱をすべて吐き出してしまって、詩人を冷気でつつみこんだ。詩人はしゃがみ込んでしまいたいような疲労をかかえていたが、夢中になって歩いていた。混乱した頭が熱をおび、どこを歩いているのかさえわからなかった。あたりに家が少なくなり、かぞえるくらいしか灯りで照らされた窓がなくなってきたとき、詩人は立ち止まった。もういつくらいからか背後で足音がしてたのを聞いてはいたが、いまはじめてその足音が詩人の意識にのぼり、自分がここまでつけられてきていたのをさとった。背後には、おびえたようにすくんで立っている掃除婦がいた。 「家まで送りましょうか?」掃除婦は言った。「まだ体調がすぐれないようですけど。」 暗がりでもわかるくらい、詩人の顔は青白く血の気がなかった。詩人は掃除婦の問いには答えずに、なぜ自分の後をついてきたのかたずねた。そしてその問いに相手が答る前に、詩人はいまどこにいるのか早口にたずねた。掃除婦はどちらの質問に答えたらよいかわからず、胸の前で指先を絞るようにもみしだいていた。しかし小さな目は大きく見開かれて、詩人をゆっくりと観察していた。 「家がこの近くですから…。よかったらひと休みしていかれますか?」 詩人は、頭の混乱の収拾がつく前に承諾していた。掃除婦はかすかに微笑むと、はだしで砂を踏む軽い足音をつくりながら歩き出した。掃除婦の家に着くまでさほど時間はかからなかった。しかし辺りにはもうほとんど家もなく、薄い板をつぎたしたようなその小さな家は、たよりない光を内側から漏らしながらどこまでも平らな地面の上に建っていた。 「粗末な家ですが…。」 掃除婦は、家に入る前に小声で詫びるように言った。 家は一部屋で部屋中に洗濯物がかけられ、粗末なベッドとソファが隅に置かれ、反対側に簡単な炊事場があった(日中外に乾かすと、強風で洗濯物が飛ばされてしまうのでやむなく部屋に干すものらしい)。部屋には母親らしいやせた女と、掃除婦の幼い弟がいた。弟は食卓に静かにすわり、皿の上に盛られている穀物のすりつぶしたものを、手のひらにいっぱいにすくい上げながら食べており、母親はその横で自分の息子の取りこぼした物を拾い上げ、食べていた。掃除婦と同じ擦り切れた布をまとい掃除婦と同じ小さな目をもった母親は、来客に対し過敏に反応し、とがめるような目で掃除婦を見た。 第65回
「おとなしくしろ!おれはあんまり気が長いほうじゃないんだ。なんだ、まだわからんのか?どうせまたこの町のやつらに悪知恵をしこまれたんだろ?」兵隊は掃除婦の母親に向かって叫んだ。「お前らはいつもそうなんだ!目を離すとすぐ、弱いもの同士集まって自分のできないことをするやつらを悪者呼ばわりしだしたりするんだ。俺たち主人のことを『野蛮』だとか『下品』だとか言うんだ。要するにそれはひがみなんだよ。わかるか、おい?強い力を誇示することのできないやつらのひがみなんだよ。そして『平等』とかいう、およそ弱虫か卑怯者しか考え出せないようなものをたよりにしだすんだ。へ、へ、へ。おいちびっこ。平等ってどういう意味かわかるか?強いものを弱くして弱いものを強くすることなんだ。弱いやつが『ずるい、ずるい』って叫んでることなんだ。でもな、よく考えてみろ。俺とお前が平等になれると思うか?同じ命の価値があるとおもうか?え?言ってみろ!」 こう言うと兵隊は興奮した顔を真っ赤にさせ、あばれまわる掃除婦を片手で抱えあげると、壁にたたきつけて気絶させた。次に目を覚ましたとき掃除婦は部屋の隅から、空気が震えるくらいの叫び声を聞いた。目の前でおさない弟が銃剣に背中から串刺しにされ、まだ火の残っているかまどに押し込まれていたのだ。弟は泣きながら虫のように両手両足をかまどにつっぱって抵抗していたが、やがて力つき丸まって火の中に入ると、剣の先で体を激しくよじって叫んだ。背後では母親が半狂乱になって息子を救おうともがいていたが、反対に押さえつけられてしまうと、いままで自分たちが食事をしていたテーブルに乗せられ、三人いた兵隊達に順番に陵辱された。家のまわりで銃声が鳴り響く中、母親はテーブルの上で輪姦され絶望の呪いの言葉をつぶやき、かまどからは弟を焦がすけむりがあふれ出ていた。ベルトを締めなおしながら兵隊が、おびえながら見ている掃除婦に向かって、掃除婦が生涯忘れられない言葉をなげすてた。 「これが現実だ。」 攻撃してきた兵隊達は、略奪を終え、腹が満ち、攻撃を支えてきた内側からのあふれ出るような狂暴さが薄まってくると、潮が引くように町から消えていった。侵略者が過ぎ去った町には、焼け落ちた建物と、殺された住人が残った。死体は町を覆い、それを食らう野良犬が群れだした。生き残った町の住人が、犬の食いちらかしたおびただしい数の死体を一箇所に集めるのに三日三晩かかった。集められた死体は、町のはずれに町のどの建物よりも高く積み上げられ、その恐ろしい山は町のどこからでも眺めることができるくらい高くそびえた。黒い山は、殺されて山の一部になっている個々の無念の叫びを吐き出すように、耐えがたい臭気をにじみだした。住人は町にあるすべての死体を集め終えると、犬の群がるこの山に火をともした。火は山からにじみ出る悲しみや怒りをエネルギーに、一週間燃えつづけた。黒かった山は一週間のあいだ生き返ったように真っ赤になって、山よりさらに大きな炎を、竜や鬼の形になって、山を代弁するようにその体を天上におどらせた。掃除婦はこのいつまでも燃えつづけるこの巨大な炎を、もうけっして消えることはないと信じ、恐怖とともにながめていた…。 やがて掃除婦は母親を連れて、いつまた襲われるかも知れない町を捨て、いまの町まで移住してきた。そしてまもなく母親は、掃除婦にとって種違いの弟を産みおとした。『強いもの』と『弱いもの』があわさって産まれでた弟の目に、掃除婦はかつて見た兵隊の、征服者の目をみとめた。そして掃除婦にはどうしてもこの弟を愛することができなかった。 第64回
掃除婦が幼い頃住んでいた町は、泥沼化した戦争にまきこまれていた。物心ついた頃すでに父親は戦死しており、母親がひとりで娘の掃除婦と幼い息子を育てていた。母親は夫の死以来、近所の洗濯を引き受け日銭を稼いでいたが、それだけでは家族三人食べていくことはできず、やむを得ず掃除婦は十にも満たない年で、歩いて2日はかかる高山で育つ水のいらない花を採取して、道端で売り歩きにだされていた。この高山へはいつも、近所に住む掃除婦よりも年上の、道にくわしい女の子といっしょに出かけた。この行程は深い森を抜け、けもの道を越えていかなければならないという危険以外にも、いつどこでなかば盗賊化した兵隊に出くわすかも知れない、という危険もともなっていた。兵隊との遭遇は死を意味するということを、ふたりはよく理解していた。だから深い森の中からいつ魔物のような兵隊が現われるか、ふたりは手をつなぎあって恐怖にかられながら息を殺して山を越えていった。しかし掃除婦は近所の娘と行くこの小旅行を、砂まみれの騒々しい町から離れ、広々とした涼しい野で眠り、腹いっぱいに山菜を食べ、清流をすすりながらながら進むこの小旅行を心から楽しんでいた。 ある日、町に帰るまであと一日の行程を残し、山の中腹で近所の娘と夜を明かしていたとき、広い平野に見える自分の町が夜の底で炭火のように燃えているのが見えた。掃除婦と娘は、おさない二人には重すぎる恐怖と不安につぶされそうになりながら、夜通し町まで駆けていった。明け方二人が町にたどり着いた頃、町はおおかた見知らぬ軍隊に征圧されていた。見わたせば、道端にはいくつもの死体が横たわり、町中けむりと銃声に満ちていた。略奪の火がくすぶる中、掃除婦は恐怖に泣き叫びながら家にたどり着いた。扉を開けるとなかには、征服者の昂揚からくる微笑をたたえた三人の兵隊が、銃剣で脅しながら、おびえる母親に食事をつくらせていた。 「なんだ、まだ野良犬が残ってたのか。」入ってきた掃除婦を見つけた兵隊のひとりが言った。そして何を思ったのか、おびえる掃除婦を無理やり自分の前まで引き寄せた。「としはいくつだ?」 噛みあわぬ歯で掃除婦が答えると兵隊は少し間をおいて話し出した。 「勘違いされないように、いまから教えといてやる。教育ってのは大事だからな。へ、へ。おい、よく聞けよ、お前やお前の母さんやそしてこの町で生まれたやつらすべてはもともと俺達の国の奴隷だったんだ。何千年も何万年もまえからだ。わかるか?よくおぼえておけ。奴隷ってのは力の強いやつらの命令を聞く力の弱いお前達のことを言うんだ。これは奴隷になる側も奴隷にする側も、なりたくてなるもんじゃあない。うまれ持ってるものだ。うまれたときから血の中に染み込んでるんだ。だからこうやっておれがお前の母さんに飯をつくらせているのは、何にも間違ったことじゃあない。この奴隷がおれの命令で飯をつくるのは、むしろ当然なことなんだ。そしてこの町がいま攻撃されたのは、お前らが俺達の奴隷だってことを忘れたから、思い出させに来てやっただけさ。主人に逆らうとどんな目にあうかおもい知らせにきたんだ。わかるか?」 掃除婦はつかまれた腕を必死に振りほどこうと試みたが、大きな兵隊の手はびくともしなかった。 第63回
目が覚めたとき、詩人は漆くいのはがれた家の軒下に横たえられていた。そばではうそつきが詩人の顔を覗き込んでいた。近くに小さなたらいに水が張ってあるのを見つけると、詩人はたらいを囲むように抱きつき、顔をつっこんで、水に溺れていたものが水をのがれて空気を吸うように、空気から逃げ出すように水を吸い込んだ。 「大丈夫かい?」うそつきが言った。 詩人は水を飲み終えて一息つくと、顔中をぬぐいながら空まわりする頭の中の考えをまとめようとした。しかし頭の中は砂で埋められたように何をつかんでも手応えが得られなかった。奇妙な胸騒ぎだけがしていた。詩人がぼんやり座っていると、うそつきが話しかけてきた。 「暑さと匂いでやられたんだろう。掃除婦も心配していたよ。」 「掃除婦?」 「あの、痩せこけた女さ。ほらそこの砂の川にゴミを捨ててる。」 うそつきが指差した方を見ると、掃除婦が大きなたらいに入ったゴミを家の後ろに流れている砂の川に捨てていた。黒ずんだゴミはあとかたもなく黄金色の砂に飲み込まれていった。掃除婦はたらいに砂をすくい上げると、器用にかきまぜてたらいを洗い、また家に戻って行った。すれちがいざまに掃除婦は、小さな目を光らせながら、臆病そうに詩人をのぞきこんだ。 「あれでも心配してるんだ。」うそつきがなぐさめるように言った。「かわいそうな女でね。戦争で父親を殺されていまは腹違いの弟と母親の面倒を一人で見てるんだ。とてもひどい目にあってね、世の中におびえながら暮らしてるんだ…。」 第62回
砂けむりのあがる道を二人は歩きつづけた。詩人はうそつきの後ろを歩きながら後悔しつづけた。子供を機関車の下に置いてきたことを後悔した。カルタをいっしょに連れ出してこなかったことを後悔した。そして、炎天下のなかうそつきの後ろを歩いていることを後悔した。口が渇き、知らぬ間に上と下の歯の間に砂が混じっていた。痩せこけ、毛の抜け落ちた犬が道端の木陰で丸まって、丁寧に時間をかけて大きな丸い石を舐めていた。うそつきは背中一面汗にぬらしながら、ぶつぶつと何かつぶやきながら急ぎ足で歩きつづけた。 「でもどうして、」詩人がうそつきの背中に向かって話し掛けた。「あなたはそのあなたの会った方が、その…神だと確信したんです?」 うそつきははたと歩みを止め、振り向き、詩人を飲み込むようにながめた。 「会えばわかるさ。」 そしてまた歩き出した。 うそつきは歩きつづける。詩人も黙って後をついていった。地面から煙のように舞い上がる砂と、ふりかかる陽光をかきわけながら二人は歩いた。陽が少しかたむいてきたころ、まっすぐな並木道に出た。きれいに整列している木は高く、かわいた土のどこから水分をかき集めてくるのか、木々は大きく青々と繁っている。うそつきは立ち止まり、並木道の先にある小さな赤い屋根の家を指さした。家は吹きつづける砂けむりの向こう側でかすんで見えた。 「あの家に住んでるんだ。」 うそつきがまた歩き出した。かたむき始めた太陽は背後にまわり、二人の前に長い影をつくっていた。詩人は目をこらして薄くぼやける赤い屋根の家を目指した。砂とほこりで水分を失ったはずの口の中からつばが滲みでてきた。心臓がクリームのように粘つく血液を体中に運び、軽いめまいを起こした。歩いているぶんには、うそつきが言うような(行き帰りどちらも登りの傾斜になっているという)この並木道の傾斜は判別できなかった…。 そして二人の前に漆くいのはがれた平屋があらわれた。玄関の扉が少し開いており、風にあおられてきしみながらゆれていた。うそつきが先に中に入っていった。詩人も後からつづいて中に入る。中は薄暗く涼しかった。しかしすぐに異様な匂いに包まれた。詩人がむかしかんばつを体験したとき、村に充満していたあの胸をさすような臭いと同じ匂いだった。廊下を歩く足もとには雑多な廃棄物が散乱していた。うそつきが詩人を導きいれようとした廊下のつきあたりの部屋からはさらに濃い異臭があふれ出ており、詩人は押し戻されるように立ち止まった。奥からは人の気配がし、部屋の中を這いずりまわる音がもれてきていた。詩人は胃からこみ上げてくるものを、冷たい汗をかきながら懸命におさえていた。うそつきは部屋の入り口でふりむいて詩人を待った。詩人が壁に手をそえて一歩二歩と慎重にゴミを蹴立てながら進んでいくと、奥の部屋からうそつきを押しのけるように髪の毛の短いやせた女がでてきた。両手にはゴミの入ったたらいを抱えていた。女は極度におびえながら、肩をせばめて窮屈そうに詩人のわきを通り抜けて玄関から外に出た。 「あれが…?」詩人は驚きながらたずねた。 「心配しなくてもあれじゃあない。」うそつきは小声で答えた。「あれは別の働き手さ。」 「別の働き手?」 「わしともう一人あの女がこの家の掃除をしてるんだよ。さあ、こっちに来て…。」 うそつきが部屋に入ると、廊下から部屋の中がうかがえた。その中は、腐って黒ずんだ果物や、肉のこびりついた骨、クッキーのように湿った木材、破れてとけかけている布などが床一面に積もっていた。そしてハエが黒い霧のようにわきあがり、部屋を横断していた。詩人は前に進み出た。ゴミが足もとにからむのか、体がいうことをきかないのか、深くなっていく沼の中を歩いていくように、一歩踏み出すのにもどかしいくらい時間がかかり、消費する体力と比例して前に進まない。部屋の入り口近くまでくると左手に、背もたれをこちらに向けたイスが見えた。おそらく老人(または神)はそこに身動きもせず座っているのだろう。肘掛には、節の大きい枯れ枝のような手が乗っていた。吐き気を押さえていると、汗がとめどなくあふれ出た。ゴミは詩人のすねの辺りまで埋まっていた。ここまで来たとき詩人は異様な昂揚にとらわれて、口を大きく開けてあえいでいた。耳は遠くなり、ハエのうなりが遠くに響いている。イスとゴミしかない四角い部屋に足を入れたとき、詩人の意識は粘つく血液にからまって遠ざかっていった。体が軽くなり、視界がゆれた。それでも老人を一瞥しようと懸命に前に出た。詩人がシミだらけのやせた老人の横顔を見たと思ったとき、目の前は照明をあてられたように真っ白になり、気を失った。 第61回
「いったい何から隠れる必要があるんです?話があるなら相談所に行って…。」 「あんた詩人って言うんだろ?あんたの噂は聞いてるよ。みんなあんたのことは好きだって言ってた。」うそつきは媚びるように、うれしそうに言った。「もう一人のあんなやつに比べると…。あんな青二才に何がわかるっていうんだ?あんなやつといつまでも一緒にいるから皆にバカにされるのさ。あんな感情の薄いやつに神について何がわかるもんか。けどあんたは信じてくれたんだろう、わしの話を?あんたの眼はわしの話に食らいついていたもの。わしにはわかったんだよ!」 「カルタも言っていた通り、」うそつきはなだめるように言った。「われわれに必要なのは、奇跡ではなくて信仰なのです。」 「いっしょに会いに行ってみないか、今から?」 「会うって…、誰に?」 「別に悪いことするわけじゃないし、そんなにこわがることはないだろう?自分の目で確かめたらいいんだよ。」 「でもどうしてわたしが…。」 「連れて行ってやるよ。どうしたんだい、会いたくないのかい?今までそのために祈ってきたんだろう?全知全能の神に会えるんだよ?素晴らしいと思わないか?」 うそつきは、直射日光に焼けるように照らされていた赤さびた鉄くずに手をついて起き上がり、まごついている詩人を連れて歩き出した。 「せめてカルタもいっしょに行ってはどうでしょうか?」 「あんなの連れて行っても意味がないさ。」うそつきはあざ笑った。「実際に目の前に据えたって信じちゃくれないだろうよ。ああいう人間には何をやっても意味がないのさ。でもその点俺たちは同志さ!あんたならきっと信じてくれるよ。」 第60回
これは男の深い信心に応えた神の御業だったのだろうか?それとも疲れ果てた男をたぶらかす悪魔の仕業だったのだろうか?詩人は窓の外に遊ぶ小さな子供を見ながら、子供の頃に見たこの情景を思い出していた。カルタの言うように、神を信仰する際、奇跡を求めてはならないのだろうか? ようやく、子供を追い払うために詩人は重い腰をあげた。カルタはまだ相談に来た人たちに熱心に神について語っていた。粗末な扉を開けるとむせかえすような埃と熱気が詩人を包んだ。起き上がったことを後悔しながら詩人は、広場がある裏手へと回る。乾燥した砂と砂利の混ざった地面をける詩人の足音に気付いた子供は、それまで無心に遊びまわっていた行動をぴたりと止めた。子供は鉄の車輪の影から、煤だらけの顔の真ん中に真っ白の目をぎょろつかせながら、詩人に対して身がまえた。そして詩人が声をかけようとしたとき、子供は臆病で敏捷な小動物のように機関車の底の奥へと逃げこんだ。いつも声をかける前に逃げられてしまう。放っておこうという投げやりな気持と同時に、事故を未然に防ぐことができなかったことに対して生ずるであろう未来の後悔に、足がすくんでしまう。詩人は追いかけもせず、立ち去りもせず、子供が立ち去った後の鉄の車輪を日光にさらされながらながめていた。 そのとき背後から詩人を呼ぶざらざらとした声が聞こえてきた。その声の様子には、他人に漏れないように秘密を打ち明けようとするとき特有の、ずるい響きがあった。振り返ると、大きな鉄くずの影から手招きしているうそつきがいた。うそつきの中ではまだ興奮がくすぶっているのか、声がうわずっていた。しかし、相談所の中にいるカルタには聞こえないように用心するだけの配慮は持っていた。詩人は、機関車の車体の下に残してきた子供に後ろ髪を引かれる思いでうそつきの招きには応じたが、ことさら鷹揚な態度をとって、うそつきの秘め事の共犯者にはならないことを態度で強調した。 「どうしたんです?」わざと詩人は大きな声で話しかけた。 「しっ!」うそつきは指を唇にあてながら、周りをうかがった。「ちょっとこっちに来てくれ。ここの影まで。あそこから見えないように…。」 「何から隠れているんです?」 「いいから、もう少しこっちまで。はやく、お願いだから!」 うそつきの懇願に詩人はしかたなく、鉄くずの影にしゃがみこんだ。 |
木鳥 建欠
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