第41回
「いや…。なんと言うか。」駅長は恥ずかしそうにハエをながめて言った。「本当にあなたがいま話してるんですか?」 「つまりどういう意味です?」 「だから、その…。」駅長はハエから視線を外しながら言った。「昆虫が話し掛けてきている、ということが少し…。」 「ふむ、どうやらあなたには現実を直視する勇気が足りないと見える。でもまあいいでしょう。多かれ少なかれ人間とは視野の狭い生き物ですからね。あまりこっちが期待しても仕方がない。むしろ期待してきた私のほうが性急すぎました。けど先ほども言ったように、私は別にあなたに無理にでも理解していただこうとは思っていませんので、安心していただきたい。ではこうしましょう。いまあなたは幻覚と話し合っていると仮定してみてはどうです?幻覚と話し合うのならハエと会話するよりもまだあなた達の常識の範疇内でしょう?どうぞ私の物理的存在なんか忘れて、気楽に話してみてください。私としては、あなたのような経験をなさった人とぜひともお話がしてみたいんですよ。」 駅長は明らかに困惑していた。ハエに限らず、駅長は、おせっかいな叔父や、おせっかいな医者や、おせっかいな警官などに、強要されて喋らされるのが好きではなかった。そういう時駅長にはいつも何も言うことがなかった。 「どうしました?」ハエは丁寧に訊ねた。「まだ何かわだかまりがあるのでしょうか?」 「そういうわけじゃないんですけど。」目を閉じながら答えた。「少し私は疲れてまして…。」 「わかります、わかります。昨夜あんなことがあったんじゃ疲れるのもあたりまえです。」 「どうしてあなたは、昨日のあのことについて知ってるんです?」駅長は目をつぶって問いかけた。 「どうしてと言われても、みんな知ってますよそんなこと。みんなといってもむろん我々の間でですがね。」 「私は疲れとるんです。おねがいだから…。」 「そうですか。それは残念です。私はいま非常におしゃべりしたい気分なんですけどね。どうでしょう、少しでいいので私の質問に答えてもらえませんかね?簡単なやつです。」
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第40回
駅長は混乱した頭で考えた。確かに昨夜正体知れぬ影と話をして三日後の寿命を言いわたされたのなら、今ハエと会話をしても奇妙さという点ではたいした差はないのかもしれない。それとも睡眠不足のせいで幻聴でも聞いているのかしら?ハエは起伏の多い布団の中でも一番高い、駅長の膝のあたりに盛り上がっているしわの上に止まり、駅長の方に向いて微動だにしなかった。駅長はどういうわけかある衝動に駆られて、布団を隔てて自分の膝の上にいるハエを振るい落とすように膝を動かしてみた。ハエは驚いたように飛び上がったが、すぐまたもとの位置に着地した。今度は、駅長は細い腕を布団から出し、手の甲でハエを追い払ってみた。しかしハエは造作もなく駅長の手を乗り越えると、また同じ場所に戻ってきた。 「困ったな。殺さないで下さいよ。もっともそんな動作じゃどんな間抜けなハエも殺せませんけどね。」ハエはあざ笑うように言った。「いや別にいいんです。もうこうなったら無理に理解しろとは言いません。身なりこそこんなですが、私はものわかりの良いほうなんです。それに世間一般の常識の中で位置されているこの虫の、いわゆる社会的地位についても把握していて、あなた達のその我々に対する蔑視も存じているつもりです。けど私に言わせると、人間は先入観にとらわれすぎるんだな。糞や腐乱したものにたかるからって、安易にハエを何かあさましくて醜いもののなかに組み込むのはどうかと思うんですよ。私たちから見れば、人間だって同等かそれ以上あさましくて醜い行動に満ちてるんですがね。どう思います?そりゃあ腐った肉の中から我々の子孫である幼虫が、何十何百とうごめき出てくる様子はあなた達にとって目をふさぎたくなるものかもしれないけれど…。」 「何しに来たんです?」思わず駅長がさえぎった。 「いや最後まで言わせてください。つまり私が言いたいことはですね、ハエを害虫としてしか見なせないうちはまだ我々の本質をつかみきれていないという証拠なんです。ハエをこの世から駆逐しようとするには、あまりにも性急すぎるしその論拠は横暴すぎるんです。それはまるでわがままな子供が、気に入らないからという理由だけで花を折ったり虫を殺したりするのと同じなんです。つまり根拠が専横すぎるんです。私に言わせると、ハエはすべての死に絶えたものの中から栄養を取り出すことのできる素晴らしい技能を持った、驚嘆すべき生き物ですよ。無から生をつむぎ出すことができる。それも目にも見えないような単細胞じゃあなくて、歩く足と飛ぶ羽を有した高等生物なんです。しかも驚くべき繁殖能力と適応力を持ち合わせ、地球上住めない場所がほとんど無いときてる。まさに絶滅していった動物達から見れば、うらやむべき理想的な生態でしょう?よく人間とゴキブリとネズミだけが爆発的な繁殖力を持っている、なんて言われてますが、私に言わせるとゴキブリもネズミも人間がいなければ繁殖できなかったと思われますけどね。それに比べ我々は…なんですか?よろしい。何か意見があるようだからうかがいましょう。遠慮なく発言してください。」 第39回
「あなたはそういうことを信じますか?あなたはそういう不思議な助言を―もちろんああいうのがあなたにとって助言と呼べるのならばの話ですが―信じることができるんですか?」 駅長はベッドから起き上がって部屋を見回した。そして窓の外に声の主を探していると、背後から声がかかった。 「いやですね。後ろですよ。」 駅長が振り向くとそこには誰もおらず、部屋の扉があるだけだった。かぼそい、いくらかおびえた声で駅長は訊ねた。 「どこにいるんです?」 「もう少し下です。下の方です。」 駅長は自分の枕もとを調べ、枕の下も覗いてみたが何もなかった。ただ枕に止まっていたハエが一匹飛び上がった。 「どこです?」 「わからないですかね?こっちですよ。」 声の主はいくらか小馬鹿にしたように言った。駅長は気味が悪くなりはじめ、布団にもぐりこんだ。部屋には確かに誰もいなかったのだ。しかし声はどこかからか響いてくる。 「そんなに怖がらなくたっていいですよ。何もしませんし。心配しないで下さい。ただあなたと少しお話がしたくなっただけなんです。ちょうど眠りにつけない様子だし。あなたの暇つぶしになればと思いましてね。」 「どこから話し掛けてるんですか?」 駅長が布団の中から、青白くしわだらけの顔だけのぞかせて訊ねた。 「ここです。ここ。すぐ横の壁の上にいるでしょう?見えますか?」 駅長がベッドに面した白い壁を見上げても何も見えなかった。ただ黒いシミのような点が動いていた。黒い点は壁から離れると、中空を8の字に飛び回った。 「ハエ?」 「そうですよ。なんだか腑に落ちないようですね。ハエじゃあ役不足だって言うんですか?え?失礼な人だな。私だってそういう扱いをされると傷つくんですからね。」 「ハエがいったい何の用でここに?」 「だから言ったじゃないですか。あなたの暇つぶしにと思ってわざわざやって来たんですから、もう少し歓迎してもらいたいな。」 「でも何でハエが…。」 「しつこいな。あなたの昨夜の経験からすれば、今日ハエと話をしたって少しもおかしくはないでしょう?」ハエはこう言うと駅長の布団の上に止まった。「さあどうです。見えますか?納得しましたかね?ダメですよ。そんなにまわりをうかがっても。私です。あなたの目の前にいるそのハエが喋ってるんです。こういうことは別にそんなにたいしたことじゃないんです。それに私はただ楽しい会話をしようと思って来ただけなんですから。」 第38回
昼食を終えた後の午睡の時間、穏やかな風が昼の陽光を運んきて建物の住民を唯一平和な気分にさせ、彼らを一様に眠らせる子守唄のような静けさに建物を満たす時間、駅長だけが眠れなかった。あたりは窓の外で風が葉を揺らす音さえ聞こえるくらい静かだった。人の気配も感じられない。ただ室内にハエが一匹飛び交っていた。駅長は仰向けに寝転び、歯茎の奥にまだ残っている昼食のパンのかすを、顔をしかめながら舌で追いかけていた。昼食はハムとレタスをパンではさんだものに、ぬるい野菜のスープといった、いつもとかわりばえのない簡単なものだった。昼食中、坊主はことのほか機嫌が良かった。そして現世での行いをただすよう、周りの人間に呼びかけていた。「でないと後でひどい目にあいますからね。なにせあの世ではあなたたちの魂の美しさを審査するんですから。」坊主は心もち鼻を膨らませ、興奮しながら語っていた。そして、「今日はとても気持のいい日だ」と、プレゼントを渡された子供のように繰り返し繰り返しつぶやいていた。昼食前の詩人との会話がことのほか坊主を刺激したようだった。うそつきも重い足を引きずって、昼食の席についていた。食欲はことのほかあるらしく、誰とも話さずにもくもくと食べていた。駅長は、もしかするとここに来る前に山で遭難していた、といううそつきの話しは本当なのかも知れないと考えた。ここの住人なら誰でも知っているが、死に瀕した病人には食欲などほとんどないからだった。 建物の中は、洞穴のように静かだった。建物の外は風が吹き、草木がなびき、蝶や蜂が活動し、雲が流れ、その他あらゆる活動に満ちあふれ、午睡をむさぼる住人達だけを置き去りにし、その日いちにちを前におし進めていった。その日いちにちから取り残された住人はしかし、焦ることもなく、雪山の嵐の中、穴の底で死んだように冬眠する熊のように、周りの活動に心を乱されることもなく平安な気持で眠っていた。ただ駅長だけが眠れなかった。昨夜、影の突然の闖入以来駅長は一睡もしていなかった。駅長は、焦りからくる汗に背中をじっとりと湿らせ、何度もベッドの上で寝返りをうった。そして頭を軽く振ってため息をつき、窓からあふれる陽光をわずらわしく思った。部屋を飛び回るハエを目で追いながら、駅長は中指を口の中に入れて歯茎の底をなぞり、昼食の残りのパンのかすを指の先ですくい出し、いちど目の前に持ってきてからもう一度舌の先に乗せた。駅長がそのふやけたパンのかすを賞味していると、どこからか声が聞こえてきた。 「聞きましたよ、聞きましたよ。あなた三日後に死ぬんですって?」 駅長はあたりを見回した。そして反射的に昨夜影が立っていたところに声の主を探した。しかし声の響きが少し違う、と駅長は思った。影の声は心地良い太い声だったが、今の声は甲高く、震えがちだった。だいいち部屋には誰も立っていなかった。駅長はもう一度部屋を見回し、寝転んで天井を見上げた。薄いシミがいくつかついた白い天井には、曇った色ガラスに覆われた電球がぶら下がっているほか、ハエが8の字に元気よく飛んでいるだけだった。気のせいだったのかしら?駅長は細い皮のたるんだしみだらけの両の手を広げ、顔をごしごしとこすり、ゆっくり時間をかけて壁の方に寝返りをうった。 第37回
ときおり真夜中に、小さな少年がむせび泣き、少年があやしている声が駅長に聞こえて来ることもあった。そんな時小さな少年は山奥に住む甲高い鳥の鳴き声のようにしゃくりあげた。そして少年は小さな少年が眠るまで耳元で歌うようにささやきつづけた。 少年は毎日の仕事に根をあげることもなかったし、泣き言も漏らしたことがなかった。そしてまだ幼いが、たくましく日焼けた首筋をまっすぐに伸ばし、自転車をこぎつづけた。少年は仕事から帰ってくると、その日いちにち身体にしみこませた太陽と埃の臭いを漂わせながら、まずその日の稼ぎを皮のふくろに入れるのを日課としていた。その皮袋は少年の寝床の下に埋められてあった。その皮袋は少年達が駅長のもとに移ってきたときに持っていた唯一の持ち物だった。少年は毎晩、眠る前に寝床の下に隠した袋を取り出し、翌日仕入れ用に遣う分以外すべてその中に入れた。駅長が知る限り、少年は一度も袋から金を出し、何かを買い求めたためしがなかった。駅長は少年に、何のために金をためるのか訊ねたことがあった。それに対して少年はわからないと答えた。少年はただただ金をためることだけに専念していた。その袋がいっぱいに満たされたとき、幸福が訪れてくると信じているようだった。ゆっくりと膨れていく皮袋を見ながら駅長は少年達に、何も欲しいものはないのか、と訊ねたことがあった。小さな少年は、少年のようにパンを売り歩くために自転車が欲しいと言った。少年は、二人で生き抜いていくための知恵が欲しいと言った。 しかししばらくするとこの少年達との生活は、突然終わった。どのくらい経ってからかは、駅長は良く覚えていないが、それは巻き上げられる埃で目を開けていられないくらい風が強い日だった。その日の夕暮れ、小さな少年が帰ってこなかったのだ。体を吹き荒れる砂埃で真っ黒にして帰って来た少年は、そこに小さな少年がいないことに気付くと、みるみるうちに表情を硬直させていった。小さな少年は、少年が帰宅する頃には必ずいつも帰ってきていたのだった。そしてそれまで見せたこともないような表情で、小さな少年がどこにいるのか駅長に迫った。駅長はただ知らないとだけ答えた。すると少年は急いで自転車に乗り、嵐のように吹き荒れる砂塵のなか、小さな少年を探しに出かけた。駅長は、真夜中まで小さな少年を探す少年の叫ぶ声が山の上の方からこだましてくるのを聞いた。それでも小さな少年は帰ってこなかった。それから数日間、仕事もせずに身を削るようにして小さな少年を探し回った少年は、ある日そのまま帰ってこなくなった。駅長は少年が去った後、少年の寝床の下から置き忘れられた皮袋を見つけ出し、半分だけ取り出し、残りをもとどおり戻して別の町へと移住した。 そして今、死を三日後に控えて、駅長は今までの人生でほとんど使ったことのない善悪の秤を取り出し、あらためて思い出したこの少年達との生活を秤にかけてみた…。詩人は、怠惰は七大悪徳のひとつだと言う。駅長には、世の中にある悪徳をすくう網の目が細かすぎるように思えた。駅長にはこの網の目をくぐり抜ける自信がなかった。悪徳の種類をせめて二つくらいに減らすことはできないのだろうか?駅長はこの網の目に自分の体がからまるのを感じながら、少年の顔を思い出していた。 その時、散歩していた住人達の真上に太陽が昇り、建物から昼食の合図が響き渡った。皆はそれぞれの散歩を終え、食堂に向かってのろのろと動き出した。 第36回
それはある大雨の降り続いた日だった。普段日中の強い日差しで硬くかためられた地面が、執拗な雨のせいで溶けてしまうくらい降り続いた暗い日だった。駅長は大きな葉を重ねた下に横たわり、白いもやのように地面にはじける雨粒を眺めながら雨をしのいでいた。少年はずぶ濡れになりながらいつものように前を通り過ぎようとしたが、その日は無言で立ち止まり、横たわる駅長を見つけた。そしてまだかごにたくさん残っているふやけたパンをひとつ駅長に差し出した。駅長がそれを無言で受け取ると、少年はゆっくりそのまま通り過ぎた。それから少年は毎日パンをひとつ駅長のために残しておいてくれるようになった。毎夕、少年は全速力で駅長の前まで来てパンを渡すと、また大急ぎでばたばたと自転車をこいで去っていった。その間、お互いに言葉を交わすことはなかった。それが習慣になり、少年がパンを運んでくることが当然の仕事のように思われてきたとき、駅長は初めて少年に声をかけた。駅長は、その日のパンをひとつ渡して立ち去ろうとする少年を呼び止め、これからは新鮮なパンを朝のうちに渡すように、と頼んだ。少年は快くうなずいた。そしてそれからは毎朝駅長の前を通り過ぎるときに、まだ香ばしい匂いを残しているパンをひとつ分け与えるようになった。そしてしばらくすると、駅長はまた少年を呼び止めた。駅長は少年に、これからは朝と夕方にパンを置いていくように、と頼んだ。少年は少し考えていたが、また快く承知した。そして駅長は一日二つのパンを少年からもらうようになった。少年は毎日、朝いっぱいなったかごからパンをひとつ選り出して与え、帰りにまたひとつ残してきたパンを渡した。以後駅長は、それ以上のパンを少年に要求することはなかった。しかしいちどだけ駅長は、別の味のするパンは持っていないのか少年に訊ねてみたことがあったが、その時少年はこれしかないと申し訳なさそうに返答した。 大雨もしのげる大きな葉の下で、日中の暑さも忘れるくらい涼やかな風にあおられて寝ている駅長を、ある晩揺り起こすものがあった。起きるとそこには少年が立っていた。その横にはさらに小さな少年も立っていた。小さい方の少年は、少年の手を握っていた。駅長が黙って二人を眺めていると、少年は駅長に、住む家がなくなったので、ここでいっしょに住ませてくれ、と頼んだ。駅長は少し考え、すぐ横にある小さな空き地を指して、そこになら住んでもいいと伝えた。そしてその晩をさかいに、二人は駅長と暮らすようになった。駅長は、雨露をしのげるように少年二人にも大きな葉で屋根をこしらえてやった。少年二人は毎晩そこで重なり合うように眠った。少年は毎朝まだ陽が昇らないうちに出かけていき、どこからかかごいっぱいにパンを仕入れてくると、駅長と小さな少年にパンをひとつづつ与え出勤していった。そして夕方には、少年は二人にパンを残して帰ってき、三人で向かい合ってパンを食べた。毎朝少年が去っていった後、駅長は小さな少年用に与えられたパンを取り上げ、半分だけ小さな少年に与えた。小さな少年は何も言わず、与えられた分だけ食べるとそのまま日が暮れるまで帰ってこなかった。誰もこの小さな少年がどこに行っているのか知らなかったし、また訊ねなかった。そして池も干上がるような暑い日中、少年がパンを持って帰ってくるまで駅長は葉の下から動かずに過ごした。少年が帰ってくる頃、小さな少年も決まって体中すすだらけになって帰ってきた。 第35回
「よく言った、詩人さん!」坊主は手をたたいて喜んだ。 「しかしだからといって、怠けてばかりでもいけません。」詩人はいさめるように言った。「怠惰は七大悪徳のひとつです。懸命に生きるものには徳があります。しかし惰性にまみれた生活には、弱い意志に流され、与えられたものを無駄にし、十全に自分の力を出し切らないという罪が在ります。人生とはつまり、弱い意志を強く美しく鍛えることにあるとおもうのです。」 駅長はしばらく考えた。あの世について考えさせられた。坊主も詩人も死んだ後の世界を信じている。駅長もおそらくあるのだろうと、納得しかけている。しかし問題がある。それは坊主も詩人も、この世での行いによってあの世での処遇が決まると言っていることである。彼らの言によると、この世で魂を清く保てなかったものは、あの世でそれ相応の罰を科せられるらしい。駅長は、自分にはどんな死後が待ち受けているのか考えてみた。罰が駅長を待ち受けているのだろうか?どんな罰だろうか?駅長が聞いたところによると、永遠に灰になることなく、燃やされつづけるらしい。今までは他人事のように聞けたが、三日後に迫ると、肌を焦がす炎がすぐそばにあるように感じられた。 駅長は自分の人生をかえりみてみることにした。そしてそこに何があるのか探してみた。見つかったのは、ある少年との生活だった。駅長がまだ山のふもとに住んでいたときだった。その少年は毎朝かごいっぱいのパンを、少年には大きめの自転車に乗せ、駅長の前を通り過ぎた。少年はいつもかごいっぱいにパンを乗せながら、サドルに尻を落ち着かせることなく起用にハンドルを操り、ひとつもパンを落とさずに自転車をこいでいた。そして夕方になると、空になったかごを乗せ、顔を紅潮させて大急ぎで帰っていった。 第34回
「もちろんです。」詩人は重そうな目を近づいてくる二人に上げて言った。二人が聴衆の中に混ざって座ると、詩人がまた始めだした。「…神はその偉大な力で我々を創り、大いなる愛と慈悲とによって我々を守っておられるからです。」 「神さんはどこから守ってるんだい?」 「天です。」詩人は空を指差していった。 「じゃあおれの腰痛がいつまでたっても治らないのは何でだ?」 「それは神が与えたあなたへの試練なのです。その試練を乗り越え、より美しい魂を目指すのです。」 「じゃあわしの小便が出ないのも試練か?」 「もちろんです。あなたはその苦しみによって、他人を思いやるための愛を養う必要があるのです。そして他人への愛を養うことによって、すべての罪を許す慈愛の心を育てるのです。」 「慈愛の心を育てるとどうなるんだ?」 「我々の大いなる父である神のもとに行くことができるのです。」 聴衆の男たちは、呆けたように口を開けて話を聞いていた。 「詩人さん、ちょっとすまんが、」坊主が手をあげて訊ねた。「その『神のもと』とはあの世のことか?」 「俗に言うとそうなります。」 「じゃああんたはあの世があると思ってるんだな?」 「あなたの言う『あの世』とはつまり死後の世界のことですか?」詩人は少し困った顔をして言った。「それならあります。そこで我々の魂は、その美しさ、その醜さを審判されるのです。」 「おれはあんたにあの世があることを証明してもらいたいんだ。」 「証明ですか?」詩人はつぶやいた。「証明は難しいかもしれません。でも人間に魂があるのがあえて言えば証明になるのかもしれませんね。魂とはわたしたちの肉体に宿しているものです。ここでものをかんがえ、体をあやつっているものです。肉体はいろんな感覚をそなえていて、魂を惑わそうとします。たとえば肉欲だとか、怠惰だとか…。それらに耐えることによって、そしてさらに他人を助けたり自分を犠牲にしたりして魂はより美しいものになっていくのです。そしてその肉体が死んだとき、魂は神のいるところに戻ってその美しさを量られるのです。」 「ところで詩人さん。ここが重要なところなんが、この世で強欲に生きて存分にいい思いをしてきたやつらはどうなるんだい?もちろんあの世でばっちり清算されるんだろ?」 「神の前では皆平等です。他人より前に出ようとしたものや、欲に動かされて他人を欺いたりしたものは、この平等を忘れたものです。他人の前で謙虚になれなかったものは、あの世でそれなりの罰が与えられるでしょう。」 第33回
「…神の存在の証明?」詩人は聴衆からの質問をゆっくりと口のなかで繰り返した。「神の存在の証明は…、それはどうしても必要なことではないのです。しいて言えば、ここに地球が存在するということが、神によって創られたこの地球があることがすでに神の存在を証明するのかもしれません。」 「どうして地球が神の証明になるんだ?」聴衆のある男が尋ねた。 「それはこの地球が美しいからです。そして神秘に満ちているからです。」 「人間も神がつくったのか?」 「そうです。」 「でもおれは聞いたことがあるぞ。人間はサルから進化したってな。」 「バカだな。ゴリラからだよ。」別の聴衆が言った。 「人間はサルでもゴリラでもありません。あえて言うならば、サルもゴリラも神によって創られたのです。神によって創られたこの地球で、人間は神によって試練を与えられているのです。同胞である人間と、その他の動物達とどのように暮らしていくか、これは神の与えた試練なのです。」 「なぜわしらはそんな試練をあたえられなきゃならないんだ?わしらは神になにか悪いことでもしたのか?」 「あなたたちの魂を美しくするためです。あなたたちの魂をこの世界で高尚なものに育て上げるためです…。」 「ここ最近えらく詩人さん元気がなさそうだな?」坊主が、細く長い腕を広げて話している詩人を見ていった。「『あのこと』がまだ引っかかっているのかな?」 坊主の言う『あのこと』とは数年前、この施設のある掃除婦と詩人が熱烈な恋に落ちた時のことを指していた。二人はある一定の期間、片時もそばを離れずにともに時間を過ごしていたのだが、あるときをさかいに掃除婦が詩人を避けるようになり、そして突然の掃除婦の疾走によってあえなく終わったのであった。以来詩人は余計にふさぎこむようになっていた。 「まあここでバカな老人を相手にしてるのも体にこたえるのかも知れんね。だって詩人さんがこの施設に来て宣教を始めてから、ただのひとりも説得させたことがないらしいからな。気の毒な話さ。なあ駅長さん、ちょっと行ってみないかい?」こう言うと坊主は駅長をつれて詩人に近づいていった。「おうい、詩人さん。わしらもここに混ぜてくれないか?」 第32回
「しかしあの世って本当にあるのかねえ。」坊主はもう何度となく繰り返した、答えの出しようのない問題をため息とともに吐き出した。「もし本当に無いんなら、計算が狂っちまう。」 本当にそうだろう、と駅長は同情しながら思った。あの世の存在だけを当てにして、人生の後半の進路を変えてしまったのである。坊主にとって、いまさら無かったではすまないはなしになっている。 「もし本当にあるんなら、駅長さん、死んだ後おれにそう教えてくれないか?」坊主はすがるように言った。 「どうやって?」 「幽霊にでも、妖精にでも、精霊にでもなって。」 無かったらどうするのか、という問いに対して、坊主は悲しそうに言った。 「おれに変な気を持たせたお釈迦さんに小便でもひっかけてやる。」 坊主ならやりかねない、と駅長は思った。もっともあの世が無いのなら、そんな罰当たりなことをしても天罰を与える主もいないだろう。 二人から少し離れたところで、大きな樫の木の木陰で人が数人集まっているのが見えた。ひとり太い幹を背にして立ち、かたまって座っている2、3人の聴衆に向かって話し掛けている。朝礼のときに『訓示四か条』を唱和させていた詩人だった。詩人はその人生のほとんどを宣教に費やし、ある辺境の地で病気にかかったとき、ここに運び込まれたのであった。無口で深いしわの刻まれた顔からは、過酷な宣教の生活があったことをうかがわせた。詩人は朝礼の時よりも疲れているように見えた。いつも詩人はこの昼前の時間を使って建物の住人に神の教えを説くのが慣わしになっていた。いちにちのほとんどの時間を自分の部屋で、長く細い体を折り曲げて祈りに費やす詩人には、ほとんど建物のなかで知人を持たなかったのだが、ゆいいつこの時間だけ他の住人と交わることになっていた。しかしこの説教も、あまり建物内で評判はよくなかった。だれもどういうわけか詩人の話を真剣に聞こうとしなかったのである。話の内容が理解できないとか、説得力がないとかいう理由ではなかったようである。言っていることは誰にでも理解できたし、詩人は時にとても熱心に神の教えを説いた。しかし誰ひとり真剣に耳を貸そうとはしなかったのである。いつもひまそうな住人がひとりふたり集まってきていくらか話を聞いていくのだが、別にその聴衆は神を信じ始めるわけでもなかった。 |
木鳥 建欠
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