第13回
駅長には坊主の話があまり耳に届いてこない。駅長は、出されたパンをちぎりながら昨夜の事について考えていた。影が帰ったあとも、駅長は一睡もできなかった。布団の中で消えない影の印象や、影との会話などを頭に浮かんでくるまま追いかけていた。とりわけ三日後に終える自分の人生についても考えてみた。三日後に死ぬとわかっていなかったら、今日この朝食についていなかった。それをどういうわけか、三日後に死ぬとわかるとそれまで待つ気になった。死ぬことに変わりは無いが、自分で期日を決めるのと、決められるのとの差がある。たいした差であるように思えないが、差があるようにも思える。 それにしても、これから三日間どのように暮らそうか?死ぬ期日がわかっているなら、有意義に過ごさなければならないような気がする。思い残しの無いようにしなければ、後悔するかもしれない。なにか遣り残したことはないか?しかし、もともと今日からいなくなってしまう予定だったので、なにも思い浮かばない。だいいち、何かやろうにもそれだけの体力が無い。最近は脱糞するだけで疲弊してしまう始末である。欲しい物も無いし、またそれを購入する資金力も無いだろう。食べたい物も無いし、舌に乗る食べ物はみな同じ味がしている。それにしても欲望の持てない人生ほど張り合いのないものもない。何のために三日も命を延ばしたのだろう?これまで続けてきた、代わり映えのない生活をあと三回繰り返すだけの話だ。この代わり映えのない生活に倦んでしまったので昨夜の行為にたどり着いたというのに、わざわざまたこの生活をするために三日も延ばしてしまった。 しかしよくよく考えてみると、この三日が七日でも、駅長は影の言う通り七日待つことにしていただろう、と思った。そしてこれが七日であろうと、一月であろうと、半年であろうと、一年であろうと、やはり駅長は予定を変更してそれまで待つことにしていただろう。けれども、だからと言って昨夜駅長は躊躇していたわけでもない。影が現れなかったら確実に今ここで朝食の席についていなかった。するとなぜ待てるのだろうか?結局、終わりの期日がわかっていると、何とでも妥協できるのだろうか? 味のしないパンを飲み込みながら考えていると、坊主が話し掛けてきた。 「気分でも悪いのか?」
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第12回
体操を終えると、今度は集会所に隣接している食堂へと移動する。長いテーブルが数列並べられていて、各自指定の席に着座する。しばらくすると茶が出され、パンが出され、ヨーグルトが出される。窓から入る葉擦れの音と、鳥の鳴き声が聞こえるくらい静かに食事が進められる。大半がこの時点で疲労している。しかし泡のように湧き上がってくる声はふつふつと聞こえてくる。陽光が眩しすぎると訴える向かいには、自分の食器が見えないと嘆くものもいるし、騒々しいと同意を求めているものの横には、耳が遠いものがなにも聞こえないと応じている。自分の湯飲みを見失ったものが、狼狽しながらここで自分は疎外されつづけていると、悲嘆にくれていると、慰めるものと非難するものが現れ、互いに言い争っている。自分の過去を誇らしげに吹聴しているもののとなりには、自分の親族の出世ぶりで張り合おうとしているものもいる。それ以外は、自分の食事以外には無関心で、淡々と食物を自分の口に運んでいる。 駅長はときおり話し掛けてくる坊主の話に応えていた。坊主は毎朝義務のように帽子の愚痴をこぼす。 「帽子のやつ部屋に入ってくるなり、『坊主なら一人で起きて勤行の一つでもしたらどうかね』とぬかしやがった。」坊主は口惜しそうに話している。今日は特に虫の居所が悪かったからなのか、さらに帽子は坊主の部屋に鎮座している小さな仏像を見て、こんなものに手を合わせるだけで満足していられるんだからめでたい人もいるもんだ、と言い放ったらしい。 帽子は駅長には決まった事しか話し掛けてこないが、坊主には憎いからなのか、毎朝なにか憎まれ口をたたいてた。 「罰当たりなやつだ。」坊主は茶をすすりながら言った。「なあ駅長さん、出家して得度すると呪いもかけられるものと思うか?もしそうならやつを未来永劫まで呪ってやるんだが。」 第11回
「楽しいんですか?」 駅長は別に非難する意図も無く、本心から訊ねた。帽子は両手の土を払い、駅長を見据えながら立ち上がった。そしてそのまま無言で立ち去った。駅長も別に返事は期待していなかった。 この経験があったので、坊主から帽子の昆虫咀嚼の話を聞いたとき、なるほど、と納得ができた。おそらく昆虫が人一倍好きなのだろう。そしてこの経験を期に、二人の関係がこじれる事もなかった。その後も帽子は定刻通りに駅長の部屋を訪れると、今までと同じように挨拶をし、今までと同じように不器用な作業にいそしんだ。 室内着に着替え終えると駅長は、廊下の突き当たりにある集会所へと移動していく。廊下の片側には手すりが設けられてある。それに身をもたせかけ、他の部屋の住人らと一緒に、牧場を移動する牛の群れのように進んでいく。集会所に入ると、一段高い所に立つ『詩人』がもうすでにこちらを向いて立って待っていた。背が高く痩せた詩人は、建物の最古参ということだけでこの地位に祭り上げられていた。駅長も指定の場所へと整列する。二,三十人集まりだすと、詩人は『寮生訓示四ヵ条』を暗唱し始める。青く生気のない顔をした詩人はかぼそい声を出して暗唱しだした。いつになく暗い声が集会所にさみしく響きわたった。詩人が一か条読み上げるごとに、皆がそれにならって唱和する。 一つ、老いたるとも、心身の潔癖をつらぬかん 一つ、老いたるとも、礼節を守らん 一つ、老いたるとも、愛をもって行動の指針とす 一つ、老いたるとも、希望を持ち天寿を全うせん 言い終えると、「おはようございます」と全員頭を下げる。それから、簡易な体操を音楽に合わせて行う。両腕を上げたり下げたりするだけである。なかには杖をついて動けないものもいるが、体を左右に揺すって動ける範囲で動いている。 第10回
駅長は、坊主から帽子についてのあるうわさ話を聞いたことがあった。坊主の知人が人気の無い調理室で帽子を見かけた時のことだった。帽子は丸い背中をこちらに向け、フライパンを片手に勢いよくなにやら炒めていた。その知人は、帽子の肩越しに幾度となく舞い上がる黒い粒を見たらしい。そしてそれらをカラカラと白い皿に移したかと思うと、背後の気配に気付いたのか、帽子はすばやく振りかえった。知人がその時皿の上に見たものは、油で光って重なり合っている甲殻の昆虫類だった。目があった帽子は別段うろたえる様子もなく、泰然と食事を始めたらしい。 「あれは悪魔の使いだよ。」坊主が真剣な目つきで結論した。「間違いない。そいつの話によると帽子の目は真っ赤に光っていたそうなんだ。」 真偽の程は知れないが、駅長にも思い当たる事があった。 ある晴れた昼前の静かな時間に、駅長は建物の前に広がる芝生の上に立っていた。広い敷地には樫の木が点在している。建物の前からはゆるやかな傾斜になっているので、空が広く見える。そこで駅長は、空を軽快に旋回する雲雀を眺めていた。雲雀につられて視線をおろすと、樫の木の根元で水仙の花に囲まれ、しゃがみこんでいる帽子を見つけた。肩越しには窺えなかったが、何か地面を掘り返しているように見える。そこから何か見つけるとつまみ上げ、目の前でいったん検証し、ポケットにしまい込む。そしてまた少し離れた別の場所で、地面を両の手でほじくり返している。駅長が近づいていくと、帽子は振り返り顔色ひとつ変えずに言った。 「幼虫を探してるんだよ。」 見られたことに対し別段うしろめたそうなそぶりもないし、かといって開き直っている様子でもない。生活上避けられない当然の事をしている、といった感じであった。そして目は赤く光っていなかったように思う。 言う通り確かに彼女の腰にある小さなポケットには、あふれんばかりの幼虫が蠢いていた。なかには、はみ出してこぼれ落ちるものもある。 「どうするんです?」 駅長は訊ねたが帽子は答えようともせず、無言で別の場所へと少し移動した。そしてむくんだ両手で、地面を掻き分けるようにして一〇センチ程掘り進む。はたしてそこには、脱皮をして地上に出るのを待つ幼虫が丸まって横たわっていた。それを帽子はつまみ上げると、もう一杯に詰め込まれたポケットの中に押し込んだ。 第9回
翌朝、駅長は建物全体に響く、いつものチャイムの音をベッドの中で聞いていた。それに続いて、虫の羽音のような音をたてて廊下の蛍光灯がいっせいに点灯される。そして絨毯をするスリッパのくぐもった足音が廊下に溢れ出す。駅長はチャイムが鳴る前から目を覚ましていた。チャイムが鳴り終わった今もまだベッドから起き上がろうとしなかった。カーテンを閉めていない窓からは、朝独特の軽い陽光が入ってくる。まばらな木蓮の木の枝の向うに白く曇った空が見えた。そしてドアが開く。 「駅長さん、おはよう。元気ですか?」元気のない、しわがれたいつもの女の声がする。「入りますよ。」 そして返事も聞かずに、駅長の寝るベッドの側までやって来る。帽子と呼ばれるこの女は、肥えた体を引きずるように歩く。今日も頭を窮屈そうな毛糸の帽子で覆っている。帽子からは好き放題に伸びた薄い髪がはみ出している。帽子はベッドのすぐ脇まできて駅長を一瞥すると、大儀そうに窓まで歩いていき、窓を開けた。開けると近くで鳥が数羽飛び立った。朝の澄んだ空気がゆっくりと部屋に侵入してくるのが感じられた。口を薄く開け、せわしなく息をしながら帽子が言った。 「起きれるかい?」 駅長は答えない。布団を被ったまま天井を見上げ、動こうとしなかった。また帽子も駅長が答えないのを知っていながら毎朝尋ねてくる。そして駅長が答えないということを帽子も知っているので、駅長もことさら答えようとしない。ふうふう言いながら帽子が近づいてきて布団をめくる。布団をめくるためかがむ時に、いつも毛糸の帽子の中で蒸れた頭皮の匂いが駅長の鼻をかすめてくる。ここで駅長は朝が来たのを実感する。帽子は数年前、木が引き抜かれ、壁がなぎ倒され、地面がめくれるような突風が吹き荒れた夜の翌日、この施設に世話人として雇われたのであった。当時から帽子をかぶっており、その容貌と体臭とで施設の人々から気味悪がられていた。 駅長はのろのろと起き上がり、ベッドの端に腰を下ろす。帽子は爪垢のたまったむくんだ手で駅長の寝巻きを脱がすのを手伝い、室内着を着せるのを助けた。何百回と繰り返されてきた作業だが、いまだに手際が悪い。駅長は縛られた芋虫のように体をくねらせながら、衣服を脱いだり着たりしなければならなかった。帽子は手際の悪さに慣れてしまっているので、特にうろたえる風もない。新米のような不器用さで駅長を助ける。そしてこの作業が終わると帽子は、苦しそうに体を起こして隣の坊主の部屋へと移動していく。 第8回
駅長は夢でも見ている心地がした。もうすでに死んでしまっているのかとも疑ってみた。しかし縄は目の前にあるし、頭もふらふら揺れている。茫然としているのは、自分の死を他人に宣告されたからなのか、それとも自分の寿命が意外と残り少なかったからなのか、よくはわからない。影はそれきり黙ってしまった。この影の言うことを、それほど間に受けていいものなのかどうかもわからなかった。他人が聞いたらなんと思うだろうか。間抜けた話にちがいない。見知らぬ影に三日後の寿命をまっとうするよう薦められたと、となりの坊主に話して聞かせてあげようか。しかしとりあえずは、この影の提案を拒否する材料は見当たらない。かと言って、説得のされ方が馬鹿げている。 「どうです?」影は言った。 駅長は影の顔を覆っているマントの奥を窺った。顔のどの部分も月明かりに反射していない。影はいたって大らかに駅長の返事を待っていた。確かに三日後に死ぬのなら、待てぬこともない、と駅長は考えた。しかし影が言うように、別に焦っていたわけではない。今までの人生の行きがかり上、なんとなく今日に決まったまでである。駅長には今日という日でもう歩き尽くしたかのように思えたのである。もうこれ以上進む必要はないと、漠然と感じたのが今日だっただけなのである。しかし、まだ三日あるらしい。たいした変更でもないような気がしてきた。 「じゃあそうします。」駅長は答えた。 「待てますか。そうですか、それはよかった。」影が言った。「それではもうこれは必要ないですね。」 こう言うと、影はまた杖の先を床に軽く突いた。すると駅長の目の前にあった縄が、ひとりでにするするとほどけ、床に落ちた。そして床に落ちたかと思うと、今度はくねくねと動き出し、影の方へと進み、マントの中へと入っていった。 「どうもお邪魔しました。」影が言い、軽く会釈した。そして杖をマントの中にしまい込んだ。「また近いうちにお会いしましょう。」 影は駅長に背中を向けてしゃがみこむと、また溶けるように影の中に消えていった。 第7回
駅長は聞いていて嫌になってきた。今まで詳しく考えたことはなかったが言われてみると、そうだったのかと得心してきたからだ。それはまるで下手な夢判断に説得されたような感じだった。しかし駅長は歯ぎしりしないでも、尿も糞もでる。たまに薬を使って眠るくらいだ。ではなぜ、今の今まで縄をあごの下に通していたのか?やはり影の説明した通りだったからだろうか?駅長はうなずかざるを得ないような気がした。あのようにはっきりと言葉にしてはいなかったが、おおかたそういうことなのだろう。 「やはりそういうことなんですかね?」影が念を押して聞いてきた。 「はあ。」駅長は降参して答えた。 しばらく時が流れた。駅長はまだゆらゆらと立っている。影は杖をついて立っている。窓の外の風は穏やかなままだ。月の光は浅い水底にいるような色合いで、心地がいい。全ての輪郭に霞がかかっている。駅長はこの世を離れている心もちがしてきた。影がいなければ、もっとこの状態を堪能できたのに、と駅長は残念に思った。それからすぐ、影がいなければ自分は藻のように空中に漂っていたのだろうと考えた。輪郭を失って、水中に浮かぶように漂ってる自分を想像してみた。本望だろうか? 「今回こうして現れたのは他でもない、」影がまた話し出した。「実はあなたを止めにきたのです。」 駅長は要領を得ずにうなずいている。頭もふらふら揺れている。 「あなたの考えを改めさせようと思いましてね。ふむ、どうも言いにくいんですがね…、その、あなたが今やろうとしていたこと、もう少し待ってみる気はないですか?もちろん無理にとは言いません。最終的には自分で決めてもらって結構なんです。でももしそれほど切羽詰まっていないのなら待った方が賢明じゃないかと思いまして。」 駅長はまだ要領を得ていない。じっと影を見つめつづける。 「実はね、駅長さん、あなたあと三日の命なんです。」影は何の感情も交えずに言った。「残念ながらあなたは三日後に死ぬように決まっているのです。そこでですね、まあ老婆心から忠告するんですが、三日くらい待ってみてはと思うのですが、どうでしょう?三日くらい待ってみたって何も変わらないのは確かです。けどどんなに自分の人生に愛想を尽かしていても、死ぬ日付が分かっていればがまんもできるでしょう?保障はします。誓ってあなたは三日後に死にます。だから焦ることもないと思いますが。」 第6回
「そうそう、ちょっと興味深い話を聞かせてあげましょう。」影は本を閉じて懐に戻した。「若くして終身刑を受けた囚人がいたんです。何でも札付きの凶悪犯だったらしいんですがね。彼は何年も何年も薄暗い刑務所で暮らしているうちに、ついに精神的に疲れ果ててしまったそうです。これから先また何年も何年も続くコンクリートとの生活が耐えがたいくらい恐ろしくなってきたのです。そこで彼は裁判所に自殺の権利遂行の嘆願をしたらしいんです。『もう死なせてくれ』って、泣いて拝まんばかりに『死んで罪をあがなわせてくれ』って。あなたにはこの気持わかるんじゃないですか?しかし言下に却下されてしまいましてね、『生きてその罪をあがなえ』とのことらしいんです。そこでこの囚人は別の方法を考えました。配給される食事にはいっさい手をつけなくしたそうです。食事が運ばれてくる扉に背を向けて衰弱死をもくろんだわけです。けど当局が死なせるはずがない。衰弱して動けなくなったとき彼は病院に運び込まれ、点滴で生き延ばさたそうです。」ここで影はまた杖をこつこつとやりだした。「あなたもこんな口なんでしょう?生きていてもこのさき何も待つべき生きがいがない。また日々衰えてくる体が、そんな期待の幻想をさっさと打ち砕いてしまう。食欲はあるが食べられない。食べても美味く感じられない。歯ぎしりしながらしぼり出す数滴の小便。薬でしか出てこない便。磨耗した皮がむき出しにするくたびれた神経。そして考える必要のなくなった脳を持ち合わせている歯がゆさ。痛む関節を撫でながら、いったい何のために生きてるんだろうって情けなくなってくるんでしょう?こうなってしまっては、趣味を持っていたって関係ない。趣味は生きがいじゃあないですからね。そのときが来るまでの埋め合わせでしかない。花を活けてみたって、野菜を植えてみたってどうにもならない。終わってしまった人生をゆっくりと噛み締めるだけでしかない。振り返るだけの人生が過去にあればいいが、いくら掘り返してみたって出てくるのは未練と後悔。自分の力を十全に発揮してきたとはどうしても思えない。必要と思われた時に努力を惜しんだその決断の鈍さが歯がゆくなってくる。そしてすでに使えないくらい古びた、カビの生えるような格言が鼻についてくる─『チャレンジなくして何が人生だ!』ほとほと嫌になってくるんでしょう?じゃあ他に何が残っているかといったら、この人生とさっさと別れてしまうか、次の世で今までの埋め合わせを期待するか…。」 第5回
「やっぱり!」影は一人合点するようにうなった。「極楽浄土!ふむ。人間は年老いると決まって妙な希望を持つらしい。」別に独り言を隠そうとする気配もない。「それはやはり、自分の余命があまりにも短いので、希望を持とうともその場所が残ってないからなんでしょうね?」 駅長もそう思った。誰かに、「老いるとは、そりゃあ恐ろしい、恐ろしいことなんだ。」と言われたのを思い出した。あれは誰だったかしら? 「ちょっと待っててくださいね。」そう言いながら細く長い指を一本駅長に向かって立てると、影は、もう一方の手でマントの下をまさぐり、皮で装丁された、黒い巨大な分厚い本を取り出してきた。本の四隅は丸く擦り切れ、ページは暗い中でも分かるくらい手垢が染み込んでいた。そして恐ろしく大きなその本を広げた手のひらで支え、もう一方の手でページをぱらぱらと繰り出した。「老い、老い…。」指で広いページを探る。「老い…。む。『老いの本質』。いいですか、『老いの本質とは、諦念七〇パーセント、希望三〇パーセントの危うい心の均衡にある。』とあります。『この均衡がやぶれ、希望が膨れ出すと往々にして人は宗教にはしり、諦念が勝ちだすと人はみずからの命を断ちたがる。この危うい均衡を保つもののみが天寿をまっとうする。』なかなか含蓄がありますねえ。思い当たるふしがあるんじゃあないですか?もう少し読みましょうか?『尚、基本的に諦念は年齢と比例し、希望は反比例するが、老年期に差し掛かったこれらの観念はその本質において、意味を少し異とする。老年期における希望と諦めは絶望を根としている。云々。』見たところ、駅長さん、あなたは九〇対一〇というところじゃあないですか?」 そう言われればそうかも知れないと、駅長は思った。それにしても、一〇の希望とはそもそもどういうものなのかしら? 第4回
「いや別に止めようとしているわけじゃあないんです。ちょっと参考までに聞いておきたいと思いまして。」こつこつと杖を床に打ちつづけながら影が言った。「ではもう覚悟は決まっているのですね?」 駅長は答えなかった。しかし何事か考えているようではあった。駅長は確かにもう覚悟ができているのか、自身に問い返していたのだった。すると特に覚悟はしていなかったような気がしてきた。覚悟はこの際必要だったのだろうか、と駅長は考えた。風に押しまくられ、そのまま抵抗もせず押されたまま今に至ったようなものなのだから覚悟する閑もなかった。よくは分からないが、覚悟はしていなかったし、必要とも思わなかったと答えようとすると、影が先に話しだした。 「ぶしつけで申し訳ないのですが、どのようなわけで今のその覚悟に至ったのですかね?」杖を床に打つのを止めて、影は尋ねた。いくぶん身を乗り出しているようにも見えた。「もちろん嫌なら答えなくていっこうにかまわないのですが。」 駅長はそれでも黙っていた。そして疲れたのか、縄を掴んでいた手を放し、両腕をだらりと垂れた。頭がゆらゆら揺れているのは、支えるものがなくなったからだろう。駅長は、もしかすると覚悟のようなものもあったのかもしれないと、考え直していた。しかし強い覚悟があったわけではないのは確かである。自分でドアを開けてくぐり、それから自分でドアを閉めたのではなく、誰かに押されてよろけた拍子に背後からドアを閉められたような覚悟だった。でもそれは覚悟と呼べるだろうか?あきらめる、という意味でなんとか覚悟とは呼べるかもしれない。 「ときに駅長さん。あなたは、いわゆるあの世とはどんな具合のところかご存知なのですか?まあ行ったことがないのだから知らないだろうけど、どういうところだろうと期待しています?参考までに教えてもらえますかね?」 「十万億土。」駅長は少しの間をおいて、うつむきながらかすれる声で答えた。 これはとなりの部屋の坊主に教わっていたので答えられた。この坊主は、つい最近に、いわゆる安楽世界に行きたいがため剃髪したものらしい。未来の保障を得たこの坊主はいつも安心した様子で、合わせた両の手のひらに向かって、なにやら楽しげに念仏を唱えていた。別の世に行くのが待ちきれないのだそうだ。「この世で財を成したわけでもないし、特にいい目にあったわけでもないんでね、あっちで存分に楽しませてもらおうと思ってるんですよ。」頭を剃って、数珠を持つ理由を尋ねられると、決まってこのように説明した。そしてひ、ひ、ひと笑う。坊主は袈裟も何も着ておらず、丸い頭と数珠は持っていたが、出家した身には見えなかった。 |
木鳥 建欠
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