作家の日記
仏教について:親鸞の「歎異抄」
親鸞の「歎異抄」に出てくる、有名な言葉に、
「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
という一文があります。意訳すると、「善人が往生できるなら、悪人こそ往生ができるはずではないか」となると思います。
これについて、二通りの興味深い解釈があります。
一つ目は司馬遼太郎による解釈です。
司馬遼太郎の解説によると、仏教には倫理的な「善人」や「悪人」はいないらしい。「善人」はいわゆる悟りや解脱ができた人で、「悪人」は食べるために魚を殺したり、妻帯したりする人の総称で、通常世間一般の人を指しています(「司馬遼太郎の考えたこと」13巻p.375~377)。
仏教で悟りをひらいたり、解脱できる人はそう簡単にはいません。身をちぎるような厳しい修行をつんだ中から、ほんの一握りしか到達しえない境地と言えます。確率的にもそれほどいない天才と言えるでしょう。
親鸞は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも往生できると衆生を説いていました。自分でなんとかしようとせず、「他力(仏におすがりして)」によって本願を遂げようと、当時貧しくて苦しい生活を強いられている人たち(悪人たち)に教えて回りました。
そういう意味において、まれに出てくる天才だけではなく、悪人(衆生)こそ阿弥陀仏によって救われるのだと説いたと言われています。
これとは別に、この親鸞の有名なフレーズをもう少し別の解釈をした人がいます。
糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」に、吉本隆明さんによるまた別の解釈の仕方が紹介されていました。
それによると、自分を「善人」と認識している人が往生できるのだとするならば、自分のことを「悪人」と認識できている人こそ往生できるのではないか、という読み解き方です。
人間の生き方の根本に謙虚さがあるとするならば、自分を「善人である」と認識する人間よりも、自分を悪人であると認識できる謙虚さの尊さを教えているように思います。
そして「善人」と呼ばれる悟りをひらいた人たちは、例えば自分を「悟りをひらいた善人である」と認識するだろうか、という重要な指摘もあります。つまり悟りをひらいた人が、「私は悟りをひらいている」と豪語した時点で、悟りをひらいていないとも言えます。
となると自分を「悪人」であると認識している人こそ往生できるという解釈になります。
以上をふまえた上で、次回は「般若経」について書こうと思います。
親鸞の「歎異抄」に出てくる、有名な言葉に、
「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
という一文があります。意訳すると、「善人が往生できるなら、悪人こそ往生ができるはずではないか」となると思います。
これについて、二通りの興味深い解釈があります。
一つ目は司馬遼太郎による解釈です。
司馬遼太郎の解説によると、仏教には倫理的な「善人」や「悪人」はいないらしい。「善人」はいわゆる悟りや解脱ができた人で、「悪人」は食べるために魚を殺したり、妻帯したりする人の総称で、通常世間一般の人を指しています(「司馬遼太郎の考えたこと」13巻p.375~377)。
仏教で悟りをひらいたり、解脱できる人はそう簡単にはいません。身をちぎるような厳しい修行をつんだ中から、ほんの一握りしか到達しえない境地と言えます。確率的にもそれほどいない天才と言えるでしょう。
親鸞は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも往生できると衆生を説いていました。自分でなんとかしようとせず、「他力(仏におすがりして)」によって本願を遂げようと、当時貧しくて苦しい生活を強いられている人たち(悪人たち)に教えて回りました。
そういう意味において、まれに出てくる天才だけではなく、悪人(衆生)こそ阿弥陀仏によって救われるのだと説いたと言われています。
これとは別に、この親鸞の有名なフレーズをもう少し別の解釈をした人がいます。
糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」に、吉本隆明さんによるまた別の解釈の仕方が紹介されていました。
それによると、自分を「善人」と認識している人が往生できるのだとするならば、自分のことを「悪人」と認識できている人こそ往生できるのではないか、という読み解き方です。
人間の生き方の根本に謙虚さがあるとするならば、自分を「善人である」と認識する人間よりも、自分を悪人であると認識できる謙虚さの尊さを教えているように思います。
そして「善人」と呼ばれる悟りをひらいた人たちは、例えば自分を「悟りをひらいた善人である」と認識するだろうか、という重要な指摘もあります。つまり悟りをひらいた人が、「私は悟りをひらいている」と豪語した時点で、悟りをひらいていないとも言えます。
となると自分を「悪人」であると認識している人こそ往生できるという解釈になります。
以上をふまえた上で、次回は「般若経」について書こうと思います。